今日で再手術まであと1週間になった。


朝から鈍色の空。
家を出る前にレインジャケットと傘を持って出るかどうか迷って、何となく置いてきてしまった。


そんな時に限って、雨は降ってくる。
おまけに、最寄の駅に着いた途端大雨です。
憂鬱な気分でコンビニに飛び込み傘を買って、自転車をかっ飛ばす。

雨の日の自転車通勤は危険が3割増。
すれ違う自転車の運転の荒いこと荒いこと。

…きっと私の運転も相当荒かったんだろうけど(-_-;)


傘を差していたのに、ずぶぬれになって社屋に入る。
風邪を引きそうなくらいがんがんに効いた冷房の中で仕事をはじめる。

ちょっとばかり煩わしさを伴う仕事は何件か入ってくるけれど、ある程度は経験則で片付けられる。
何か大きなことが起こる度にそれまでの経験則で対応しきれない自分に苛立たしさを覚えてならないけれど、瑣末なことくらいは片付けられるだけの経験くらいは積めてたのだなぁと慰めにもならないことを思いながら、仕事を片付ける。


…どういう訳か、ぱったり仕事がなくなってしまった。


仕事が立て込みすぎれば不満炸裂、なければないで不安炸裂という勝手な思考回路を笑いながら、無理やり雑用を探してみたりパソコンの前で無駄に作業してみたり。


…ふと、思った。


執刀医から部外者扱いされたことを、苦々しく思っていたこと。
それが物事全体ではなく、不快に思ったことの側面だけしか見ていなかったに過ぎなかったのだと、殆ど毎日のように話している友達の言葉にはっとした。


書類上でも、何処から見ても明らかな家族という立場の人間ですら、ちゃんと家族のことを思って対処できないことの多いのに、その枠から外れた人間がそれ以上のことなどできるだろうと予測して状況や処置の方法について話すことを判断しろと言う方が難しいのかもしれない。

友達の言葉はもっと柔らかく暖かなものだったんだけど。

確かにそうだよなと思う。


付き合ってる人が大きな怪我をしたり病気をしたりすると離れてしまうパートナーが多いのだと、竜樹さんから聞かされたことがある。

「だから、霄は変わり者の部類に入るんやで」

そんな風に竜樹さんに言われたことがある。

私が世間様の言う「変わり者」だとしたら、医師は余計に判断しにくいだろう。
いつ離れていくか知れない人間になど、詳細について話すことは出来ないだろうから。


…悔しいけど、執刀医の判断は正しいのかもしれない。


身近にいる家族が取り乱すなら、その外側にいる他人はもっと冷静に対処しないと。
でなきゃ蚊帳の外であることの意味はないのだと思う。


ボスは相変わらず賑やかで、私がぶつっとしてると話し掛けてこられる。
それに心のかどかどを取り除いてもらいながら、暇すぎる時間が流れていった。
定時に事務所を出て、帰宅ルートをまっすぐ辿った。


夕飯を食べて、自室に戻ってぼんにゃりしながら、昼間振り返り振り返り考えてたことに思いをめぐらす。


「相手が大きな病気をしたり怪我をしたりしたら、離れていくヤツ多いねんで」


なんでそんなこと、できんねやろ?
自分がしんどいと感じることから逃げることを別に悪いとは思わないし、誰にもそれを責める筋合いなんてないと思う。


…でも、もしも自分の存在が相手にとって病と精一杯戦うための拠り所となるだけの存在だったとしたら?


大切な人からその拠り所すら奪っていくの?
自分がしんどくなくなるのと引き換えに、相手が大切にしてるものを根こそぎ奪っていくの?


竜樹さんの病気の重さに何度となく触れてきたけれど、そのことが原因で「別れる」という選択肢は出てこなかった。
自分がしんどいことよりも、辛そうにしてる相手の方が絶対的に辛いのだから、「逃げ出そう」という発想自体が私の中から生まれることはなかったからかもしれない。

人を見て羨ましく思っても、状況が上手くいかない様を何度となく見ても。
そんな感情そのものが生まれることがなかった。


…ただ竜樹さんが生きて私の傍にいてくれたらそれでいい。


それを執刀医の先生に理解されないと不快に思うのはお門違い。
判って貰おうと話したところで何が変わるわけでもない。
戸籍という名の形を持たぬものに特例を出してくださいと言って通すような人じゃないだろう。
一律「部外者」として扱われたことをずっと屈辱的だと感じていたことは事実だけど。


彼の病気を食い止める側の人の中での私が部外者でしかないと言うのなら、それはそれで仕方がないのかもしれない。

ならば、部外者なら部外者のできることをすればいい。
竜樹さんの大切なものに私がなれたというのなら、私は最後までその大切なものでありつづけたいと思う。
間違ってもいろんなことのしんどさに負けて、竜樹さんから拠り所を根こそぎ奪うような真似などしない。


それひとつで十分だと感じるのはただの気休めでしかなかったとしても。


…なんだか不思議な感じがする。

自分が竜樹さんの拠り所かもしれないなどと今まで考えたこともなかったのに。
自分に自信がなかったからかもしれない。
竜樹さんといてて安心してるようで、どこかに小さな不安は眠っていたのかもしれない。
それが自分が竜樹さんの拠り所かもしれないと少しでも思えるようになったのは、竜樹さんが「安心してもいいんだ」と配慮し続けてくれたからに他ならないんだと思う。


もしも、それを信じてもいいのなら。
私が竜樹さんの傍にいることで竜樹さんが病気に勝とうと思えるのなら。
私はどこまでも一緒にいるよ。
それが傍から見たらただの変わり者のやることでしかなかったとしても。


竜樹さんから拠り所を奪わない。
私が竜樹さんの拠り所であるうちは。


多分それは私にしかできないことだから。
私は竜樹さんに必要とされるだけ傍にいようと思う。

確かな暖かさ

2002年9月5日
昨晩少しパソコンの前で姉さまに頼まれた作業を終えて一息ついていると、メールが届いた。


…あ、竜樹さんからだ。


多分打ち合わせで疲れたから、電話ではなくメールなんだろう。
てっきり手術の最終打ち合わせの話を報告してくれるものだとばかり思っていた。


「おやじから今日連絡あったー?」

手術の打ち合わせの内容は竜樹父さんから連絡があるだろうと、こないだお見舞いに行った日に聞かされていた。
けれど、自宅に戻ってから一度も連絡はない。


「ないよ。お疲れでたのかな?今日も暑かったし。
具合はいかが?」

随分呑気な返事だとは思ったけれど、取り敢えずそう返した。
すかさず、メールが飛び込む。


「こないだ親父に話しておいてくれって頼んだ話、電話しとけっていったのに、してないやろヽ(`⌒´)ノ」

怒りの顔文字がついたメールを見て、思い返す。


お見舞いに行って家に帰り着いてから、竜樹さんのご実家に電話をした。
私に持ってくるように言われたものとは別に、竜樹父さんに伝言しておいて欲しいといわれたことがいくつかあったから。
竜樹さんが伝えて欲しいと思われるだろうことは私も感じ取れてはいたので、説明するだけの時間的な余裕を見繕ってくれはるなら、きちんと説明できたとは思う。


…ところが、電話の向こうからは何だかてんやわんやしてるのが見て取れる。


翌日は竜樹さんの手術の最終の打ち合わせ。
竜樹さんのこと以外にもいろいろと抱えていらっしゃってご多忙な竜樹さんのご両親は、いつもにもましてバタバタしておられるご様子。
明日病室に入る前に伝えておきたいことんだけれど、事情説明してちゃんと把握してもらえそうな雰囲気ではなかったので、火急に竜樹さんが必要としてる書類のことだけ伝えて電話を切った。


竜樹さんが仰ってることは、きっとそのことなんだろう。
メールの調子からして、危惧した問題は起こってしまったのかも知れない。


「バタバタしてはったみたいで、ゆっくりお話しできそうになかったんです。
何をおいても話すべきでした。
いつまでも役に立たなくて、ごめんなさいm(__)m」


そう飛ばすと、すかさずお返事。

「あの時、霄はどう思ったん?」


言葉に詰まった。
微妙な内容の話だったから、きちんと時間を取って伝えたかった。
必要以上に誇張されて伝わったり、軽んじられていい話ではなかった。
だけど、伝えなかったことで問題は起こってしまったんだろう。
でなきゃ、竜樹さんはそんな風に怒らないだろうから。

お見舞いに行った日に自分が感じたことをそのまま文字に置き換えて、そのまま夜空に飛ばした。
それっきり、竜樹さんから返事はなかった。


…また、逆戻りだ


竜樹さんの体調が悪かった時、何度となく起こってはぼこんとへこんだ時の感じと同じ。
竜樹さんに思うことを少しずつでも伝えていく過程の中で少しずつ私自身も改善されたんだと思ってたけれど。
こんな風に問題が発生した時は、結局何にも変わってないのかなという気になる。


どんどこ落ち込んでいってるところに、またメールがひとつ。
着信音で竜樹さんではなく、姉さまだと判ったけれど。
姉さまの質問に答えて、おまけついでに簡単な事情説明だけしてメールを飛ばし、床に携帯転がしてそのまま横になる。

こんな心境で眠れるはずはないけれど、ひどく疲れてしまった感じが抜けずに何時の間にか眠ってしまってた。


頭の中でぼんにゃりと部屋電の呼び出し音が聞こえる。


…電話が鳴るということは朝なのかな?


ナンバーディスプレイも眺めずにそのまま出る。


「……にゃい(p_-)」
「…霄?起こしてもたか?」


…竜樹さんだった。


「どうかしはったん…ですか?」
「…いや、メールでやり取りしてた話についてやねんけど…」


何処となく声の感じが弱い気がしてどきりとする。
自分の思ったこと、それが叶わなかったこと。
意識はぼんやりしていたけれど、その事実の部分だけを掬い上げて伝えられるように注意深くゆっくりと言葉を選びながら話す。

「…そら、そやわなぁ。そんな状況が電話口から判るんやったら、親父ら相当バタついてたんやろ。
霄の判断のが正しいわ。
ごめんなぁ、言い過ぎたわ……」

「いや、もっと的確に伝える方法はあったのかも知れへんし…」
「そんな状態で親父に話しても殆ど右から左やで。これでよかったんや」
「私の感じ取ったこと、あさって向いてました?」
「いや、俺が思ってたことをよう汲み上げてる。ありがとうな」


その話が終わった後、手術の打ち合わせの話を少しだけして電話を切った。
何処となく不安そうな竜樹さんの声に少し力が戻ったのを感じ取ってほっとした。


時計を見ると、5時。
これから寝なおすとしんどいだろうとは思ったけれど、少しだけ眠いので寝直した。

…案の定、二度寝したら却って眠気も体のだるさも増したけれど


今日の会社は昨日は午前中、自分勝手に持って来られる仕事を投げ散らかすのに手間どって終日忙しく、日中に会ったことを振り返るとボスだけがやたら明るかったことくらいしか思い返せないけれど。


行き違いを起こしても、臆せず互いの思うことを話し合えること。
そうしてでも2人でいるために、詰めていけること。
そんなことはごくごく当たり前のことかもしれないけれど。


それをありがたいものとして受け止められること。
互いの想いを詰めることでより心の傍にいられること。
それがただ嬉しいのだと。


齟齬を超えて得たものは、小さいけれど確かな暖かさ。
私にはそれが嬉しかったんだ。


昨日竜樹さんに会えたからか、いつもよりは心持ち楽に起き上がることが出来た。

決して元気ではない、むしろいろんなことに対して心を砕いていたり、不安を抱えていたりすることが見え隠れして気にかかることは多かったのだけど。
それでも、竜樹さんがそこにいてくれることが嬉しかった。
私が大切に想うものを竜樹さんもまた大切に想っていてくれることが嬉しかった。


それひとつが今の私を支えているのかもしれない。


今日は、竜樹さんの手術の最終の打ち合わせ。
竜樹さんのご両親と竜樹さん、担当医の先生とおそらく執刀医の先生。
一堂に会して具体的なことを話し合うのだと思う。


本当はその場所に私もいたいと思っていた。
けれど、決定的な「形」を持たないが故に医者の側からは「部外者」としてしか扱われないことは先の手術の時に否応なく味わったから。
今回も「形」を持たない私はまた蚊帳の外。
そんな扱いを受けることを承服できよう筈などないけれど、それが暗黙のルールとして今目の前に横たわるなら仕方がないのかもしれない。


心の中で渦巻いてることが吹き上がらないように気をつけながら、用意をして家を出る。


事務所に入って仕事を始めるけれど、今日は仕事の進みが気持ち悪いくらいすっきりしている。
ややこしい仕事が入ってくると確かにいらっとはするのだけど、考え事よりも先に仕事の方に意識が向かうのでどこかで思考の渦は途切れるけれど。
仕事が一段楽すると、竜樹さんの手術のことが頭を擡げる。


部外者呼ばわりされることも気にはなっていたけれど、それと同じくらい気になることがある。


…それは念書。


そんなに大掛かりな手術じゃなくても、取られる念書。
それに大した意味などなくて、形式だけのものだと言った人もいるけれど。
身近な人がそれを書く機会に何度出くわしても、心は鈍色に変わる。


私が念書の存在を知ったのは、竜樹さんとはじめて出逢った年の冬。
ちょうど金岡父が大掛かりな手術を受けることになって、金岡母と仕事で打ち合わせに行くことの出来なかった私の代わりに行ってくれた海衣から「そういうものを書かされた」と聞いたのが初めてだった。
それよりもはるか昔に金岡方の祖父が手術を受けた時もきっと何度となく書かされたものなんだろうと思うけれど、その時は一切のことは孫たちにはシークレットだったので、そんな年齢まで念書という存在を知ることはなかった。


有体に言えば、「手術の際に何が起こっても、(執刀される側は)一切文句を言いません」ということのお約束書きみたいなものだと聞く。
尤も、医療ミスで裁判が幾つも起こってることを見聞きすると、その念書がどれほどの効力があるのかは疑問だけど。
予め「何が起こっても文句言いません」なんて、誓約取らされる側にはあまり気分のいいもんじゃない。


その誓約を取らなければ落ち着いて執刀できない事情があるだろうことは、何となくだけど判る気はする。
執刀する人たちが最初っから不誠実な手術をするなんて思わない。
手術が上手くいかなかったとしても、そのすべてが不誠実な対応の結果だなんて思わない。


けれど、決して気分のいいものじゃない。
念書がなければオッケーという訳じゃないけれど、何となくすっきりしないんだ。


大人気ない見方かもしれない。
極端に穿った見方かもしれない。
今まで生きてきた中で医者と聞いていい目に遭った試しがないからという、つまらない経験則から一方的に判断してるだけに過ぎないってことも、誰にどうこう言われなくても判ってる。


けれど、もしも手術が上手くいかなくて、竜樹さんの身体のどこかが一生動かなくなったら?
もしも、二度と意識が戻らなかったら?

それでも念書書けば文句も言わずに立ち去れと?
その紙切れが問答無用の根拠になるわけ?


嫌な思考は出口を失い、螺旋を描く。
しかもどんどん加速していく気すらする。


籍という「形」がなければ、どんな繋がりを築こうとも容赦なく「部外者」で、「念書」とやらを書けばどんな結末迎えてもどうすることも出来ずに「ごきげんよう」?


…そんなん、ありかよ?


「それが現実てぇもんだよ」と毒づく自分もいる。
どんどん心の中に生まれた闇は大きくなる。


「おーい、かなちゃーん。お茶煎れてくれぇぃ♪■D(^-^o)o(^-^)o ■D ( ^-^)o」


私のデスク横に立てかけたボードとボスのデスクの液晶ディスプレイがちょうど互いの顔を隠してしまうせいか、マグカップを掲げてにこにこしながら左右に揺れながら叫ぶボス。


…ホンマに、この方は(^-^;


私がぶつっと長時間黙ってると必ずちゃちゃを入れてくる。
そこに社長が加わると、事務所中が瞬時に雑談系おなごみモードに早変わり。
そんなんやから業績が悪いのか、業績が悪くてどことなく沈みがちだからトップ2人が元気に振舞うのか。


「熱いお茶ですね?」
「そうそう♪熱いのが美味いんや♪(*^-^*)」


ボスからマグカップを受け取り、台所でお茶を煎れる。
ボスに煎れ立てのお茶を渡すとなんだか嬉しそう。
その笑顔を眺めているうちは思考の迷路にいたことすら、一瞬忘れてしまえるからなんだか不思議だ。


「…明るいですね、ボス(^-^;」
「暗い顔してたってなんも変わらんやろ?明るく行こうぜぇ♪(o^−^o)」


…あぁ、そっか。


先の手術から3年。
その間に医師から部外者呼ばわりされないだけの「形」にできなかったことに思いを巡らせたって仕方がない。
念書を取らされることだって仕方がない。
付き纏う感情がどうであれ、自分たちが持っているカードで挑むしかない。
執刀医や再手術のためのチームが無事に竜樹さんを連れて帰ってきてくれることだけを信じて、私は私が持てるものすべてでフォローするしかないんだ。


私の持ってるものなど、たかが知れてる。
竜樹さんにダイレクトに出来ることなど本当に限られている。


それなら、だからこそ。


自分の持ってるもののすべてで対処するより他はないんだと。


随分冷静さを欠いてた自分を少し情けなく思いながらも、自分の持ってるもので何を生み出せるかを考える。

自分の中の風向きが少しだけ変わったのを感じながら、仕事を終えて家に戻る。


今日の打ち合わせについて、竜樹さんからどんな話が飛び出すかは判らないけれど。


ただ自分の持ってるもののすべてで竜樹さんのことを受け止めたいと思う。


今朝も何だか蒸し暑い。
寝汗で目が覚めたので、シャワーで汗を流して出かける用意をしたけれど、家の外もまた蒸し暑くて汗が吹き出る。
シャワーを浴びた意味がなかったような感じで電車に乗り込む。


今日は会社帰りに竜樹さんの病院にお届け物をする。

昨日手に入れたお箸をなるべく食事の時間までに届けたいと思うから、定時ジャストに事務所を飛び出し、なるべく早く病院に辿り着ければいいなと思いながら社屋へ向かう。


朝の書類取りは以前ほどびくびくしなくても、よくなってるのがありがたいけれど。
今まで何度となく打ち破られてきた沈黙が今回珍しく長く続いてるのがちょっと不思議な感じがする。

…誰か、何か言ったかな?

先輩が誰かの言うことなんて聞くような人じゃないことくらい長い間一緒に仕事をしてれば判りそうなものなのに。
どんな事情や理由があるにせよ、誰がどんなことを言ったかしたかは知らないけれど。
今は必要以上に疲れたくはないから。
これはこれでありがたいなぁと思う。


取ってきた書類を淡々と片し、一人明るいボスの話し掛けに時折答えながら、もくもくと仕事をこなす。
相変わらず好きにはなれない仕事ではあるけれど、今はとにかく定時に事務所を飛び出せればそれでいい。
時間が空けばたったかたったか次の段階の仕事をこなし、昼からはあまり疲れることなく仕事を進められた。

定時5分前になり、ゴミ当番の仕事を始める。


…どうか厄介な電話がかかってきませんように


この時間帯にかかってくる電話は決まって、手をとられる仕事に化けることが多いので、せめて今日だけはかかってこないことを祈りながら、だかだかとゴミを集めてまわる。

電話に捕まることもなく、無事定時に事務所を飛び出すことができた。


自転車をかっ飛ばし、ホームに滑り込んでくる電車に飛び乗る。

夕方だというのに、お湯の中にいるような感じがするくらい蒸し暑い。
お腹も少し空いてる気がしたけれど、会社から病院までどれ位の時間がかかるか判らないからうっかり寄り道も出来ない。

会社から病院に向かうのは、これがはじめて。
面会時間内に、どうせ行くなら少しでも長い時間竜樹さんの近くでお手伝いしたいから。
とにかく、お腹がすこうが足元が少々ふらつこうが乗り継ぎの度にホームを走り、僅かな時間に滑り込んでくる電車に飛び乗り移動を繰り返す。

…予想してた時間よりも早く病院に着いた。


夜間出入り口から人の流れに逆らいながら病院に入る。
薄暗い鰻の寝床のような薄暗い通路をがつがつと肩を怒らせながら歩く。

…夜の病院は少々気味が悪いのだ

別に病院にお化けが出るとか不審者がいるとかって思わないけれど、薄暗く無駄にぐねぐねしてる通路は薄気味悪さが付き纏う感じがするから。
きっと傍目にはけったいな歩き方をしてるだろうと思いながら、ようやっとエレベーターホールに着き、竜樹さんがいるフロアにあがっていく。


ナースセンター前の面会者のノートに名前を書いて竜樹さんの病室に向かう。

扉のガラス越しに、少々ぐたっとしてる竜樹さんが見えた。


恐る恐るドアを開け、奥にいらっしゃる患者さんと面会に来られてるご家族の方に簡単に挨拶をして竜樹さんの傍による。


「…あれ?霄?どしたん?」


竜樹さんにお箸を届けに行くと言っていたのはいいけれど、「いつ」行くというのが上手く伝わってなかったみたい。


「ご飯は食べはったんですか?」
「うん、さっき終わってん。
食べ終わったら身体がいったぁてなぁ。身体起こされへんようになってもてん」

話をよくよく聞いてると、昨日からずっと調子が悪かったみたい。

「霄はご飯食べてきたん?」
「いいえ。面会時間に間に合うかどうか判らないから、食べずに来ました」
「これからはちゃんと食べといでやぁ。身体がもたへんから…」

そう言って、買い置きのパンを戸棚から取って食べるように言われ、もこもこと竜樹さんの隣でパンをかじっていた。


「他に足りないものはないですか?」
「そやなぁ。その引出しの中の手帳取ってくれるか?」

サイドテーブルの中にあった大きなシステム手帳を竜樹さんに手渡すと、走り書きしたメモを見せてくれた。


…その中の一点を見て、何ともいえない気持ちになった。


メモには、スリッパとRingと書いてあった。


「Ring」は、前回の手術の時に交わしたペアリング。
竜樹さんのは左手の薬指にしか入らないからずっと小さな袋に入れて持ち歩いていはったのだけど。
今回うっかり竜樹邸に置き忘れてきたらしい。


「…指輪、いるんですか?」
「うん。急がへんけど、持ってきて欲しいねん。
荷物の整理をしてる時になくしたら困るから、小さな箱に入れておいてんけど、その箱から持って出るのを忘れてん」


竜樹さんはあまりジンクスや迷信じみたものは信じない性質だし、取り立ててお守りのように何かを持ち歩くことに拘る性質でもない。

なのに、2人で交わした指輪は必要だと言ってくれる。

左手にするわけでもないし、ましてや手術室には持って入れないものなのに。


それでも2人で「頑張って元気になろうね。幸せになろうね」と約束した証しを必要としてくれる。


竜樹邸から持って出ることを忘れたことよりも、竜樹さんがそれを必要だと感じてくれることの方が数倍も数百倍も嬉しいことだから。


「俺んちに寄るのが面倒やったら、構へんからな?」
「いえ、ここにいてる間にちゃんと持ってきますから」


心持ち不安そうな竜樹さんの手の甲にぽんと手を置いて応えた。


そうこうしてるうちに時間はあっという間に過ぎて、面会時間は終了間際。
本当はもう少しいたい気がするけれど、そういう訳にもいかない。


「今よりもこれから霄にはいっぱい手伝ってもらわんなんから。
絶対ここに来る前に食事は済ませて来いよ?
霄が元気でいることが俺にとっても大事なことやねんから」


そんな風に気遣ってくれる竜樹さんと握手するような形で手を握り合う。
そして、そっと手を離して病室を後にした。


私がずっと大切にしてきたものは竜樹さんにも大切なものだった。


それがとても心に力をくれる。

思うことは沢山あるけれど。
心にはまだ小さな闇がぽつぽつとそこいら中に落ちてるけれど。
その一つ一つを払いのける力は、きっと2人が大切にしてきたものから生まれるのだろうから。


いろんなことを思っても、最後には笑顔で手を繋いで歩けるように。
2人が大切に想うものを握り締めて、この山を越えようと思う。


週明けは強い日差しと蒸し暑さで目が覚めた。

…9月に入ったというのに、いつまで暑いんだろう(>_<)

だるい身体を無理やり起こして、出かける用意をする。


電車の中は学生でいっぱい。
今日から新学期だからだろう。
ついこないだ夏休みで竜樹邸で一緒にいられる時間が楽しみだの、やれ急遽入院だのばたばたしていたけれど、気がつくと手術まで2週間を切ってしまった。
時間が経つのはとても早くて、その波を乗り切るのに日々精一杯で。

…果たして再手術の日までに一体どれくらいのことができるのかなぁ?

その質量は見当もつかないけれど。
竜樹さんが再手術に挑むその日まで、自分にできることと竜樹さんにとって必要なこととの折り合いをつけながら歩きつづけるしかないのだと。
ぼんやりと考えながら、会社に向かった。


先月末はやたら暇で問題があるなぁと思ったけれど。
いつもなら暇なはずの月初めなのに、朝からやたら忙しい。
電話は噛み付くように鳴り響き、つまらないことからややこしいことまで応対しては片付け応待しては片付けを繰り返す。

朝定例の書類取りで足止めを食らったら、それこそもれなくサービス残業コースに突入するだろうと始業1時間で読みがつく。


…どうか、足止めを食らいませんように


祈るような思いでそろりそろりと階段を下り、フロアに着いたら挨拶しながらだーーーーっと書類棚まで一直線。
それが功を奏したかどうかは判らないけれど、足止めを食らうことなく事務所に戻ってこれた。
黙々と書類を片付けたり処理したりしながらも、電話はちゃんちゃん鳴り響く。


お昼休みが来る頃にはぐったりしていた。


お弁当を食べながら、ふと思う。


…竜樹さん、お箸足りてるのかなぁ


土曜日、竜樹邸から持って出た割り箸が底をつきそうなので、洗えば何度も使えるお箸を持ってきてくれたらありがたいなぁという話が出ていた。

本当は昨日持っていくつもりが、頭痛でダウン。
今日仕事がスムーズに終わりそうなら、今日にでも持っていけたらなぁと思っているけれど。
仕事がスムーズに片付くかどうかは、定時が来るまで判らない。

「取り敢えず、出来るだけ仕事を片付けよう」と急いで昼食を摂り、ボスと社長のお茶を煎れなおし、後片付けの後残った時間を使って昼からの仕事に着手する。


昼からも仕事が途切れることはなく、やってくる仕事。

月初めの会議中も電話の勢いは衰えることがない。
むしろ担当者が会議中なので、対処できずに積み上げられる身処理の山。
会議が終わった後は、まるでゴミを投げ込むように書類入れに投げ込まれる大量の(そのくせ、あまり売上に反映されなさそうな)仕事を片すのに手をとられてしまった。


会社を出る頃にはぐったり疲れてしまった。
時間的にそのまま病院によることも出来ず、お箸を買うのがやっとだった。
竜樹さんが不自由することなく食事を摂れたかどうかだけが気になったまま、家に辿りつき、食事と後片付けが済むと、ごとりと意識が落ちてしまった。


次に目が覚めたら、とうに日付は変わっていた。
慌ててお風呂に入り、自室に戻ってから2週間以上遅れてる日記の穴埋めをしないとと起き上がってゾンビっちの前に座るけれど、今度は気持ちを言葉に置き換える作業に難航。
さりとて眠ることも出来ず、ずるずると起き続けてしまう。


…何で、こんな毎日なんだろう?


家に帰ったら最低限度の生活活動以外に何もせずに意識が落ちるなんて。
まだこれがこの家にいてるうちはいいけれど、これが家を出たり竜樹さんと一緒に暮らし始めたら一体どうなるんだろう?


…いや、竜樹さんと一緒に暮らし始めたら、ここまでしんどくはならないだろうけど


物理的にしなければならないことは増えるし、自分の時間が確保できる機会も減るのだろうけれど、少なくとも精神的には安定するような気がする。
寝るために家に帰るのではなく、大好きな人と一緒にいるために家に帰る。
そのために頑張って仕事を片付けられる。


…でも、どなんだろう?


やるべきことが増えてしまって、今のように毎日消耗しきるような仕事のやり方が続けててそう長くはもつ訳もなくて。
いずれにせよ、なるべく早いうちには仕事を辞めないとならないだろうなぁとは思う。
さりとて、いきなり収入をなくしても大丈夫だと思えるほどに置かれてる状況が機嫌の良いものでもなければ、いろんなものを蹴散らすには勇気も足りない。


ただ判ってるのは、この仕事は何年続けても好きになんてなれないなぁということだけ。


どうすれば効率がよくなるのか、立て続けに連発するミスを防げるのか。
考えてそれをただ伝えるだけでは通らないことが多くて、伝えるための手段も方法も提示の仕方も考えるけれど。

結局、今までしてることを変えたくないのだということになれば、どれだけ無駄であってもそれを続けるしかないことも。
理路整然と話をしようとすると、自分の歩いた過去で頭を打つ。


…何で、前職がどうだったとかってことを5年近く引きずれるんやろ?


一度お気に召さなきゃあとは三つ子の魂百までよろしく、いつまでもずるずるずるずると。
そういう感情的で女々しい思考回路の人々にもいい加減うんざりはしてたんだ。
努力がすべてにおいて反映されるなんて間違っても思わないけど、好きでもないことで無駄な努力なんてできるかって気はしてる。


…判りきってることで何時までも心煩わしてる私も、大概女々しいわなぁ


結局、自戒モードへ思考は逆戻りするけれど。


日常に振り回されすぎる自分は、何だからしくなくて嫌だなぁと思う。
煩わしいものを一刀両断に出来なくなってる自分の勢いのなさに嫌気もさしてれば、会社にいる間の8時間半を割り切って過ごせない自分の大人気なさにもうんざりはしてるけれど。


ひとまず、竜樹さんの手術が終われば、進退の目鼻はつくんだからと言い聞かせたのも自分。


だから今は竜樹さんの手術の行方を眺めながら、じっと様子を見ていよう。
飛び出すための力をそっと蓄えながら。
そして私から生まれる行動力が竜樹さんの方向からずれないように。
もちょっとだけ自分がコントロールできればいいなと思う。



電車を乗り継ぎ最寄駅まで辿り着いてからスーパーに寄った。
「夕飯は食べて帰る」と言ってしまったので、家に帰っても食事はない。
せめて自分が食べる分くらい自分で賄おうということで、少しばかりの食材を調達。
バスに乗って家に帰る。


家に帰ると、金岡両親は食事を終えてちょっとくつろいでいた。


「あれ?今日は随分早いやん?どないしたん?」


予想通りの言葉が飛んでくる。
ならば、もう話した方がいいのだろう。


「あのね、竜樹さん、入院してはるんよ」
「何時から?」
「先週の月曜日から」
「また具合悪いの?」
「あんまり長いこと具合が悪いんで、もういっぺん手術するんだって」
「…そうか」


慌てるでなし、昔みたいに「そんなヤツとは別れろ」と喚くわけでなく、不気味なくらい静かな反応。


病院にいてる時、竜樹さんに「霄のご両親はどう言うてはるん?」と聞かれて、「まだ話してない」と伝えると、複雑そうな表情だった竜樹さん。
伝えにくい雰囲気であったことや今晩その旨伝えると話してはおいたけれど。


…この状況、一体竜樹さんにはどう説明したらいいんだろう?


またしても言葉に詰まるような問題をひとつ心に抱えながら、自室に戻って着替える。
極めて、彼ららしい反応だとは思う。
一見無関心そうに見えて、いきなり見舞いの品を持たされてびっくりすることもある。
彼らがどういう風に感じているのかは、きっとおいおい明らかになるんだろう。
竜樹さんには私が感じ取ったままを伝えようと思う。


リビングに戻って買ってきた食材でご飯を作る。
挽肉を炒め、台所に転がっていたタコスミックスと水を加えてタコミートを作る。
ナスを輪切りにして水に晒し、水気をふいてから軽く表面を炒めてグラタン皿に並べる。
その上にタコミートを乗せ、上からタコソースをかけ、溶けるスライスチーズを乗せてオーブンで焼く。


…かんなり辛かったけれど、もう少し辛味を調整したら美味しく食べられそうだなと思いながら、一人で黙々と食べている。


私が自室に戻っている間にプードルさんの散歩へ行っていたのか、金岡両親とプードルさんがリビングに戻ってくる。
このムサカもどきのご飯の話をしながら、何時の間にか会話の空気はいつも通りの状態に戻っていた。
ちょっとばかり複雑な気分になりながらも後片付けをして、また自室に戻る。


床に転がっていた携帯を見ると、姉さまからメールが届いていたので、またそのお返事を返しながら、何時の間にか休んでしまっていた。


朝、目が覚めてがっかり。


…あ、録画し忘れた(>_<)


昨晩姉さまから今朝のNHKのドイツ語講座で「オリ・カーン」のビデオクリップを放映すると聞いていて、張り切ってビデオをセットしようと思いながら何もしないまま寝てしまった。
あと30分早ければ間に合ったのにと、思うとさらに落ち込む。

携帯を見ると、姉さまからメールがひとつ。


…姉さまも見損ねたらしい。


週末に再放送があるらしいので、安心した次の瞬間、頭痛が襲う。
昨日それほどひどくなくてほっとしてたら、いつもの倍ほどの痛みが走った。
そのまま暫く布団の上で蹲り、また横になる。


…今日も体調がよかったら、竜樹さんの病院に行きたいのになぁ


できるだけ早く痛みが取れるようにと祈りながら、じっと横になっていた。
でもなかなか頭痛は治まらない。
焦燥感だけが募る感じ。


「…霄、会社辞めて運転免許でも取りに行くか?
どう考えても週末の頭痛は平日のストレスからきてるんやろ。
免許取ってくれたら、俺も助かるねんけど…」


昨日、よほど疲れて見えたのか、何度もそう言われた。

入院してる人にそこまで言われるほど疲れた表情を見せること自体、どうかと思うけれど。
平日は職場で体中にぶつぶつを発し、休みの日の朝は決まって頭痛の嵐。

こんなのは本当に長く続けてていい訳ないんだけれど…

さりとて、いきなり収入がなくなるというのにも不安はあるから、それならそれでもうちょっと何とかしなきゃならない。
手術前の人に心配かけるしか能がないなんて、どうしようもない。

閉塞気味の思考回路ではあるけれど、出口を探す努力は続けないとなと思いながら、窓の外の空を眺めていた。


結局頭痛が治まったのは夕方だった。


薬を飲むためにリビングに降りて簡単なものを食べ、部屋に戻って薬を飲んでじっとしてると、姉さまからメールが届く。
また作業を引き受けることになって、ごそごそとゾンビっちをあける。
作業に入る前に、竜樹さんに「行けなくてごめんなさい」とメールを入れてぼつぼつと作業を始める。


やがて夕食。
3人揃って食事を摂り、後片付けをして自室に戻ると、携帯にも部屋電にも着信の表示。


…竜樹さんからだった"(ノ_・、)"


昨日病院の中を案内してもらった時に竜樹さんの病室から電話のあるところまでは結構距離があったので、わざわざ電話のあるところまで出向いてもらったのに出れなかったことが腹立たしくてならない。
相変わらず食事の時に携帯も部屋電の子機も持って降りない私が悪いんだけど…

「電話出られなくてごめんなさい。食事をとっていたのです」

そんなメールを夜空に飛ばした。


その後は、姉さま依頼の作業を続行。
途中、姉さまからメールが入って殆どチャット状態。
どうして昼間はあんなに頭が痛かったのに、夜になると元気なのかは全く謎。

…夜に元気でも意味ないのになぁ

全くそう思う。


竜樹さんと一緒にいたいなら、元気でいることは必要不可欠。
竜樹さんが大変な時だから、余計に元気でないといけないのに…
なるべく竜樹さんに元気な笑顔を届けられるように、自分自身が元気を取り戻すための鍵を探し出さないとならない。


姉さまとのチャット状態の携帯メールのやり取りをしながら。


せめて休日に頭痛で悩まされないで済む方法を早く見つけようと思った。
竜樹さんが入院して2回目の週末。

休みの日にしては珍しく朝早く目が覚めた。
今週は竜樹さんの具合がいまひとつで、外泊届は出されなかったそう。
だから、今日は病院へお見舞い。

昨日連絡を貰った時、「ゆっくりでいいから、病院に着く時間帯が判ったらメールくれる?」とのことだったので、ちょっとぼんにゃりして用事を片してから家を出る。


階下に降り、遅い昼食を食べて後片付けを済ませて出かけようとすると、「今日は夕飯何を作るんや?」と金岡父に聞かれた。
竜樹邸に行くとご飯を作るというのは既に金岡家では周知の事実なので、家を出る前には決まって聞かれることなんだけれど。
咄嗟に言葉を濁してしまった。


…まだ、金岡両親には竜樹さんが入院したことを話していない。


入院が決まった段階できちんと話すつもりでずっと様子を見ていたけれど、なかなか話す機会がなかったのと、食事がてらさらりと世間話程度に流してしまうのもどうなんだろうと考えてるうちに、どんどん日ばかりが過ぎてしまった感じ。

多分、今更竜樹さんが入院してることや再手術を受けることを話したところで彼らの中で何が変わるとも思わないけれど。
昔の癖か、それとも最悪の事態になるかもしれないという不安がよぎるからか、すっと切り出すことができなかった。


どちらにしても、いつもよりもうんと早く帰宅すれば帰宅が早い理由は聞かれるだろう。
その時にきちんと説明したら、自然な流れで話を進められるような気はした。


…もしかしたら、それが新たな波乱を巻き起こすかもしれないけれど(-_-;)


ひとまず遅くなりすぎても具合が悪いので、家を出た。


今日も暑いとはいえ、幾分湿気が少ないのでまだマシ。
病院は空調が効いてるので、多分気温の影響を受けることなく穏かには過ごしてるんだろうとは思うけれど、冷房漬けになるのも考えもの。
身体にダメージが少なければいいなと思いながら、坂道をてくてくと歩く。
ホームに滑り込んできた電車に乗り、「15時頃に着きます」というメールを送る。

夏休み最後の週末だからという訳でもないのだろうけど、車内は割と込んでいる。
冷房が効いてたかなと思っても、人が乗り込んでくるごとに温度が上がるような感じがする。
よろよろと電車を乗り継ぎ、病院を目指す。


前回入院した病院は遠すぎるので、今回は竜樹さんちから比較的近いところに入院させてもらったのだけど、そのせいか随分移動時間は短くて済んでる。
前はあまりに遠かったせいか半ば遠足気分で通ったものだけれど、私の家からもそれほど遠くない病院ならゆっくり身体を休めてから出かけても余裕を持って病院にいられる。
病院に長くいられれば手伝えることも増える。
私にとっても都合がよかったのかもしれない。


電車の乗換えを繰り返し、病院の最寄駅で降りる。
そこから夏日の道をてくてくと病院目指して歩く。
ひたすら歩きつづけてやっとこたどり着いた。


前回入院してた病院よりもはるかに大きくてきれいな病院だった。
竜樹さんから知らされていた部屋番号を確認しながら、鰻の寝床のような通路をうろちょろ歩く。

途中、喫煙場所や待合室でごろりと横になってる人がいてびっくり。
前の病院じゃそんなことをしてようものなら、看護婦さんが注意しておられたから…
「随分いろんな人がいるなぁ」と思いながら、てくてくと通路を歩く。

やっとこエレベーターに辿り着き、竜樹さんがいると思われる階まであがる。
看護婦さんの詰め所前で記帳していると、右側に人影が見える。


…待ちくたびれた竜樹さん、迎えに来てくれていた(o^−^o)

「よぉ来てくれたなぁ(*^-^*)」とほにゃと笑う竜樹さん。
思ったよりも元気そうで嬉しくなる。


竜樹さんのいる部屋に入ると、あまりにキレイなのでびっくりしてしまった。

「随分、キレイなところにいはるんですね」
「せやろ?前の病院と比べたらはるかに設備ええやろ?」


急に具合が悪くなっても、対応が早くてよいらしい。
それを聞いていて安心した。

病室に入って暫くすると、竜樹さんは煙草を吸いに階下に降りていかれた。

竜樹さんのベッドのお隣にはもう一人いらっしゃるとは聞いていたけれど、カーテンで間仕切られた向こうからは何の気配もなかった。
それでも患者さんがおられるのだからと、一人静かに竜樹さんが戻ってこられるのを待っていた。


竜樹さんは飲み物を持って戻ってこられた。
暫く竜樹さんは椅子に座り、私は(どういう訳か)空っぽの竜樹さんのベッドの上に座って暫くお話をしていた。

すると、何度も看護婦さんが出たり入ったりする。
最初はそれほどでもなかったけれど、だんだんその間隔が詰まってくる。

「お隣さん、お加減悪いのかな?」と気にしているのに気づいたのか、「しょっちゅうナースコール鳴らすねん」と耳元で竜樹さんが言った。
さっき来てもらってたと思ったら、また押しての繰り返し(^-^;


…病院というところはいろいろあるのだなと思いながら、なるべく騒がしくならないようにそっと話していた。


時折竜樹さんは落ち着かないのか、そっと触れてくるけれど。
あまりそちらに意識を向けないように気をつけていた。

「やっぱり、病院やとなんか落ちつかへんなぁ。甘える訳にもいかへんし」
「そんなん、当たり前やないですか」

具合が悪くて病院に残ったのは竜樹さんやんと思いながら、ちょっと情けなさそうにしてる竜樹さんが何だかかわいくて、よしよしと頭をなでた。
その間も頻繁に看護婦さんは出たり入ったりしている。


…確かに、甘えるのあの字もでぇへんような状態やね、これって


身体に触れる触れられないとかいう話じゃなくて、本当に落ち着かないなぁと思いながらぽつりぽつりと話していた。


そのうち食事の時間がやってきた。

「割と食事、美味しいねんで(*^-^*)」

病院食というとあまり美味しくないんだろうなぁと思っていたけれど、ほにゃと笑う竜樹さんがの表情を見てると、食生活もそう不自由してないんだと安心できる。

お隣さんもおうちの方がお見えになって、病室中が賑やかになる。


…お隣さん、1日病室で寂しいんだなぁ


そんな風に思いながら竜樹さんが食事してるのをぼんやり見ていると、お隣さんの奥さんがお裾分けにとケーキ屋さんのゼリーを持ってこられた。


…そのお裾分け、私が頂いてしまったのだけど(^^ゞ

お裾分けで幸せな気分になりながら、また暫く竜樹さんとお話してると、面会時間も終わりに差し掛かる。


竜樹さんが玄関まで送りがてら、どんなところにどんなものがあるかを教えてくれるというので、2人で並んで歩く。
あちらこちら案内してもらっても、やっぱりそんなに沢山の時間一緒にいられるわけではなく、あっという間に玄関に着いてしまった。


「今日はありがとうな、嬉しかった」
「また明日来れたら、来ますね」
「無理したら、アカンで。どっちかと言えば手術後頑張ってもらわんなんから」


そう言って、2人で暫く手を繋いだままその場に立ち尽くし、どちらもなかなか繋いだ手を離そうとしない。
そんな様に互いに少し笑って、その手を離した。


帰り道は何だか切ない。
まだまだ先は長いのに、何だか胸が痛くなるけれど。

竜樹さんがどこにいても、そのほにゃっとした笑顔を見せてくれるなら、まだ頑張っていられる。
竜樹さんが少しでもたくさん笑顔でいられるように、私は頑張る。


そんな風に思いながら、電車を乗り継ぎ家に戻った。

光の国へ、再び

2002年8月30日
昨晩、何とはなしにネットを泳いでいて、今年のルミナリエの会期が決定してることを知った。
公式のホームページを覗き、何かしら新しいことが決定してるのを見つけると、とても嬉しい気持ちになる。

今年も行けたら6度目のルミナリエ。
そして5度目の神戸小旅行になる。


最初に行ったのは竜樹さんが今よりはまだ元気だった頃。
闘病生活には入っていたとはいえ、神戸まで車で移動し寒い中歩きまわったその足でまた帰ってくるようなことが出来ていた。
それが翌年から微妙に体調が悪くなってきたから、1泊2日、ちょっとリッチな時は2泊3日の小旅行の形になって今に至るのだけど…

殆ど毎年のように「キレイなんはええねんけど、寒いしあまり元気でないことも多いから、やめようか」という話があがるけれど、どういう訳か毎年続いている。
まるで、「1年間お互いによく頑張ったね」みたいな感覚の小旅行になってるのかもしれない。


…今年はどうなるんだろう?


手術から3ヵ月後の小旅行は必ず行けるという確約を取るには微妙な時期。
これが暖冬なら多分行けるだろうけど、厳冬なら諦めなきゃならない。
2人だけで旅行に出る機会なんてそうそうありはしないから、できるなら今年も行きたいけれど、それが元で竜樹さんがしんどい思いをするなら意味がないから。
嬉しい気持ちを少しだけ抑えながら、眠りについた。


ほどなく朝はやってきた。
相変わらずどこまでも蒸し暑い。
よろよろと起き上がり、寝汗をシャワーで流して家を出る。


今日は月末。
ひと月の仕事のパターンの中で、この日と親会社に書類を返す時期が一番忙しい。
あまり忙しすぎると余裕がなくなるので嫌は嫌なんだけど、今日も暇ならかなり問題がある。
複雑な気持ちを抱えながら社屋へ向かう。


午前中、少しばかりいつもよりも仕事が多くて、ちょっとバタつく。
でもある意味、月末らしくていいかもしれない。
ボスは所用で昼から出社。
だからいつもの賑やかさはなく、何だか慌しい。
不思議なもので、忙しい時にちゃちゃを入れられると仕事の進みが悪くなるので嫌なくせにこういう時にいらっしゃらないのは寂しかったりもする。
殺伐とした月末のスタートに、いつもとは違う緊張感が走る。


けれども、それは午前中で終わってしまった。


きりきりとつめて仕事を片付けたために、昼からすることがなくなってしまった。
忙しい時は午前中以上の仕事が昼からどっと舞い込んで泣きそうになるけれど、今日は月末の癖に気持ち悪いくらい仕事がない。
些細な雑用を見つけては片付けるけれど、少ししたら仕事がなくなる。


…ホンマに大丈夫なんやろか?


一応来年で辞めるつもりでいてるとはいえ、ちょっと不安になる。
月末でこれほどまでに仕事がないのは、かなりヤバい。
何度も何度も書類を見直したり、済ませた仕事の確認をしたり。
ヘンな意味で疲れてしまった。


定時に事務所を出て、よろよろと家に帰る。
その途中、竜樹さんにメールを飛ばした。

「ルミナリエの会期が決まったようです。
今年も行けたらいいですね」

もしかしたら今年は叶わないことかもしれないけれど、ただ今年の冬も一緒に行けたらいいなぁと思って飛ばしてみた。


家に帰り着いて、自室に戻ってぼにゃんと過ごし、夕飯を食べて後片付けをして、また自室でぼけっとしてると携帯が鳴る。

…姉さまからだった。

相変わらずワールドサッカーの話をしたり、職場の話をしたり、服や靴の話をしたり。
笑い転げながら数時間が過ぎてしまった。


電話を切って暫く経つと今度は部屋電が鳴る。

…今度は、竜樹さんからだった。


「今週は調子が悪いから、病院にいようと思うねん。
1週間仕事でしんどかったやろから、ゆっくり来たらええで。
来る前に何時頃に病院に着くかメールちょうだいな」


明日の打ち合わせをした後、暫くお話。

「…あ、ルミナリエの会期決まったってメール見た?」
「うん、見たで」
「今年は無理かもしれないけど、何となく送ってみたくて」
「いや、大丈夫やろ?3ヶ月もしたら、また歩けるし出かけられると思うから。
また泊まるとこ抑えなあかんなぁ」


この人はいつもこうだったなぁ。
手術を2週間後に控えてた年もそのためだけに帰ってきてくれた。
竜樹さんの具合が悪くて諦めるしかないかな?って時にも最終的には行ける方向に持っていってくれた。

神戸小旅行はただの私の我儘なんだと思う。
「1年に1度だけ」と言いながら、随分彼には無理をさせてきたのかもしれない。
別に行かなくたっていいようなものかもしれない。
それがなければ絆が解ける訳じゃない。


でも、何でか毎年胸が躍るんだ。
あの光の国を2人で歩きたいと思うんだ。


今年叶わなくても仕方がないと思いつつ、きっと願ってしまうのだとは思う。


…元気で再び、光の国を歩けますようにと


青空が見えてるくせに、小雨ぱらつく朝。
昨日寝るのが遅かったから少しだけだるさは残っていたけれど、心はすっきりしていた。
いつまでも人の手を借りてばかりじゃダメなんだろうけれど、暖かい気持ちに癒されて気分よく家を出た。


…どうしてこんなに不安定な天気が続くんだろう?

先週は妙に秋めいていて、暫くこんな感じの天気が続けば竜樹さんの体力はあまり消耗しないで済むなぁと喜んではいたけれど。
いつまでこんなけったいな天気が続くんだろう。
手術後暫くは状態が安定しないから、できるだけ穏やかな天候でありつづけてくれればいいのにと、雨のぱらつく青空を電車の窓越しに眺める。
昨日のお礼のメールを飛ばし、幾分涼しい電車から蒸し暑いホームに降り立つ。


…ひとまず、今日も頑張るか


ひとつ気を吐き、社屋へ向かう。


仕事の滑り出しは比較的順調。
噛み付くように鳴り響く電話だけが少しばかり鬱屈とした思いを連れてくるけれど。
昨日楽しい時間を過ごせたのだから、大丈夫。
それに、ボスが相変わらず近くで明るさを振りまいていてくれてるので、どことなく楽しげな空気の中で仕事が進められるのも今の私には救いかもしれない。
黙々ときびきびと仕事を片付けていく。

会社にいてると、またしても雨。
よく連日飽きもせずに降ってくれるなぁと、会議室の窓を開けて雨脚眺めてため息ひとつ。
レインジャケットを持って出れていないことも憂鬱の原因の一つだけど、雨が降る前後は」竜樹さんの具合が悪くなるのが目に見えて判ってる以上、雨が降ること自体を機嫌よく受け入れることなんてできやしない。


「…うわぁ、よぉけ降ってまんなぁ♪o(^-^o)o(^-^)o(o^-^)o」


社長が窓を開けて雨が降るのを喜んでる様に、一瞬こぶしをグーにして息をはーーーっと吐き出し、ぽかんとやってしまいたくなるような心境ではあったけれど、関係のない人になど何も言ったりしたりするのはお門違いと自分を宥め、もくもくと仕事を続ける。


雨は昨日と同じく、会社を出る頃にはあがっていた。
雨が降ってもちっとも涼しくならないのを少々不愉快に思いながら、自転車を飛ばした。


電車を乗り継ぎ、よろよろと家路につく。
うっかりすると、電車の中で寝こけそうになるので、必死に意識が落ちないように気をつけてる。

…それでも、くすーっと寝てしまうこともあるのだけれど


電車を乗り継ぎ、バスに乗ってようやっと家に帰り着き、自室で不意に寝入ってしまった。
そこへ、携帯が鳴る。
着信音にびっくりして、起きて鞄から携帯を取り出すと竜樹さんからメールがひとつ。


「ぐっすり、眠れた?
私はどうも年齢より若く見られるのか、若造扱いされるのが頭にきています。
それとどうも風貌がイカツイのか、男にはびびられてるようです。
その点、女は強い!私を子供扱いできるんやから!なめんなよって感じ・」


……………σ(・-・)ぷっ


竜樹さんには申し訳ないけれど、笑ってしまった。


…だって、あまりにも想像がつきすぎるんだもの。


竜樹さんに言うと気分を害されるようなのであまり言わないようにしてるけれど、竜樹さんはどことなくかわいらしい部分を持ち合わせておられる。
ちょっとみミニカーンな風体なので(笑)、怖そうに見えるとも言われるけれど。
あのほにゃとした笑顔といい、ちょっとした言動といい、非常にかわいらしい部分をお持ちなのだ。


一緒にい始めた当時から、少々偉そうにものを仰っても、どことなくかわいらしさが見え隠れ。
つい「かわいいなぁ」と口にしてしまう私に、「男にかわいいって表現はないやろヽ(`⌒´)ノ」とちょっとお怒り竜樹さん。


…また、その表情がかわいいんだ(o^−^o)


今まで竜樹さんと歩いたことのある人だって、きっと同じように思ってたんだろうと思って、「他の人には言われませんでしたか?」と聞くと、「そんなん、言われたことないで( -_-)」とむくれる竜樹さん。


…だから、それがかわいいんですって(≧▽≦)


それ以上言うとただのいじめになるので、それ以上は言わなかったけれど。
病院の職員さんが竜樹さんとどう接してるのかがよく見える。
いくら7年がかりで私が「かわいい」と言うことに慣らしてきたとはいえ、やっぱりよくよく知らない人にそういう対応をされるのは嫌なんだろう。


…けれど、そんな風に接することのできる職員さん。かーなり羨ましいぞo(;-_-;)o


羨ましい気持ち半分、ほほえましく思える部分半分でお返事をする。


「帰ってきてから少しだけ寝ました。
昨日ちゃんと寝たのに、やっぱりこんくらいの時間になると寝てまう(-_-;)
まるで赤ちゃんです(笑)

竜樹さんはは若くみえるし、かわいいとこあるので、女の人はつい過剰に構うのでしょう。
でも、フツーにしててくれたのが竜樹さんにはいいのにね。

…と言いながら、私も竜樹さんをかわいがりてー(^^ゞ←怒る?」


そのお返事に更なるお返事はなかったけれど。


週末まであと1日。
私の知らないところでかわいがられてる(遊ばれてる?)竜樹さんに逢える。
今週はどうも調子が悪そうなので、もしかしたら竜樹邸じゃなくて病院の方に行かなくてはならなくなるかもしれないけれど。


…病院の人に負けないくらい、かわいがってあげるから、ね。


そんな風に言われて竜樹さんが喜ぶとは思わないけれど。
竜樹さんが「かわいい」と言っても気分を害さずにいてくれる数少ない人。

できたら、それが私だけならいいんだけど。


…早く竜樹さんに会って、うんとかわいがりたいなぁ。


見た目と中身のギャップが愛しい竜樹さんに早く会いたくて仕方なかった。


昨晩、あれほどの大雨だったというのに、蒸し暑さは変わらない。
しかも、青空が見えてるのに小雨がぱらついている。
そのせいなのか、それとも単に相変わらず寝つきが悪いためなのか、身体の重さが抜けない。
どことなくだるさとボケた思考を引き連れて、家を出た。


電車で移動しながら、定例の朝メールを打つけれど。
そうそう機嫌のいい話など転がっているはずもなく、思うことを綴れば読まされる人にははた迷惑な気がして思うように言葉が出てこない。


…ふと思った。
3年前の時のように、暫く音信不通を貫いた方がいいのかもしれない。


前回の時はなるべく自分の胸の内は語らなかった。
いくら今よりも手術に対する希望が大きかったとは言え、話しているうちに不安の芽を人に見せかねない状態ではあったから。
必要以上の心配をかけたくなくて、かかってくる電話以外の連絡は極力しなかった。
当時はパソコンを所有してなかったのは勿論、携帯はメール機能のついていないものだったし、部屋の電話もつけたところで殆ど友達には教えていなかったから、音信普通にしやすかったということもあって、そんなささやかなる意志を貫けたのだけど。


今回は前回とは少し状況が違う。


携帯には誰かしらからメールが入ってくる。
部屋電は勿論携帯の番号も以前より知ってる友達が増えてるので、電話もかかってくる頻度は高い。
その環境以前に日記を書き始めてから、どうも昔のペースに自分を戻すことが出来ない。


…ちょっと喋りすぎな自分が表に出すぎてる。


日記で想いを語り、メールで想いを語り。
どうも心の内を隠しながら上手く誤魔化してのらりくらりやっていく方法をどこかに置き忘れてしまった気がする。
確かにそうすることで、いろんな想いに触れることもできれば、自分の想いの中に眠るものを確認することもできる。
いろんなものが膨れ上がる前に打ち明けることのよさも判ってはいる。


けれど、やっぱり私の胸の内を託される人はたまったもんじゃないんだろうとしか思えない。

自分が大切な人から想いのかけらを託されても、それがうざかったり重かったりしんどかったりすることは殆どないけれど、人が自分と同じように考えるなどとはどうしても思えないから。
朝メールにちょっと引き気味な言葉を交えてしまった。
決してそうしたかった訳でもないのに、でもそうしなければならない気がして。

どこかすっきりしない気持ちのまま、会社に入る。


割と調子よく仕事を進められる生活が普通のものになりつつある。
それでもイレギュラーやら気分の悪いことはあるけれど、極力自分の気持ちの中で過剰にストレスのかかるものは排除する方向で黙々と仕事を進める。


昼頃からまた大雨が降ってきた。
先月買ったレインジャケットは家に置いたまま。
最近はいつもこう。
家を出る前には晴れてるくせに、会社につくと雨が降る。


…いつになったら、レインジャケットをちゃんと使えるんだろうか?


そうぼそっと口にした言葉に、「そんなん、持ち歩いとかなアカンでぇ」とボスが反応。
それもそうかとヘンに納得しながら、ぼそぼそと仕事を続ける。
もくもくと仕事を続け、時折ボスの話し掛けに受け答えして、会社を出る。

社屋を出る頃には、雨はやんでいた。
自転車をかっ飛ばして駅に向かい、ホームで電車を待ちながら携帯を眺める。


友達からメールが届いていた。
そこにはいろんな想いがつまっていた。
自分だって蟠る想いを抱えてるのに、まっすぐな気持ちを届けてくれる。


電車に揺られながら、迷う心の中をじっと眺めていた。


電車を降り、ふと竜樹さんのことが気になってメールを飛ばす。
何に疲れてるのかよく判らないけれど、ねむねむだということも添えて。
すると暫くして、メールが返ってきた。

「自己血、とられたぁー(>_<)
400ccやでぇー!牛乳びん、2本分(T_T)トホホー。俺もネムネム」


…もう始めてるんだ。


手術に使用するための血液を事前に自分の身体から採取しておく。
そうすれば拒絶反応が起き難いということなんだろう。
毎日採取するわけではないけれど、何日かに一度は採られると聞いていた。
いろんなことの準備がもうこの段階から始まってるんだということに、軽いショックを受けながら帰宅。

玄関を上がると、靴箱の上に小さな包みがひとつ。
開けてみると、ずっと探していたルミナリエのCDだった。
「これからもずっと一緒にいよう」と言われた年のもの。
これだけはどこを探しても見つからなくて殆ど諦めていたんだけど、数日前ひょんなことから新品が見つかった。

…諦めずにいれば、得られるものもあるんだよ。きっと。

しょうもないことで何だかそんな風に感じて、竜樹さんにメールを飛ばす。

「痛いし、しんどいなぁ(>_<)
そんなに血ぃ取られたら、私倒れます(爆)
お疲れ様ですm(__)m
家に帰ったら、数日前に見付けた一昨年のルミナリエのCDが届いてました♪

今日はこれを聞きながら楽しい思い出とともにすかーんと眠ろうと思います(^^ゞ


今日は姉さまからの依頼の作業はお休み。
だからゆっくりぼんにゃりできると、少しばかりほっとしていたけれど。


…最後にひとつだけ、引っかかりつづけてるものを落としてしまいたかった。


まっすぐな気持ちを届けてくれた友達に、きちんと応えたいなぁと思った。
彼女がわだかまっていることを教えてもらった時、少しだけ解決の糸口になるかもしれない方法のひとつが見えた気がした。
それが根本的な問題を解決するとは思わないけれど、思考の中に吹く風向きが少し変わるだけで機嫌よく歩き出せることもある。

それを話すことが友達にとっていいかどうかまでは判らないけれど、この先いつまで気持ちのやりとりが続けられるかなんて判らない。
竜樹さんの手術の結果次第では、例外なく一旦音信普通にせざるを得なくなることもある。
だから、できるうちにきちんと伝えておきたいと思った。
疎まれたら疎まれた時考えようと思った。


…そして一緒に伝えておきたいこと。


まっすぐな気持ちを届けてくれてありがとう。
ただ私が思うことを受け止めようとしてくれてありがとう。


そんな気持ちも伝えられたらいいなと思った。


携帯握り締めたまま散々迷って、やっとこ電話して。
どこまで伝えられたかも判らなければ、それが友達の役に立つのかどうかすら判らないけれど。
いろんなことを話し、いろんなことを聞いて、時間を過ごした。


…ちょーっと、遅くまで話し込みすぎた気はしたけれど(-_-;)


私が思ったことがあまり形を崩すことなく受け止められてたらいいなぁ。
そう言いながら、本当はお話しして救われたのは私だけかもしれないけれど。
ただ、心の傍にいてくれることの嬉しさが、少しでも伝わってくれてたらいいなぁと思いながら、目を閉じる。


ようやっと落ち着いた気持ちで眠りにつけた気がした。



雨があがったら…

2002年8月27日
さすがに前日の睡眠時間が2時間をきってると、翌日も眠れないなどということはないようで、気がつくと朝を迎えていた。

きっとそれだけじゃなくて、前日の「大丈夫」の贈物があったからだと思うけれど。


今日も暑くなりそう。
先週は「もう秋が来たの?」と思うほどに涼しかったのに、こんなに気温の変化が激しいといくらなんでも身体がもたない気がする。

けれど、竜樹さんの手放した魚にとっては、暑い方が元気でいられるからいいんだけど…

竜樹さんも元気だといいなと思いながら、会社に行く。


このところ朝は比較的平和。
朝一番の書類取りも書類を取りに降りるまではロシアンルーレットするような精神状態に陥るけれど、殆ど足止めを食らうことがなくなったので、ストレスは小さくなってきてる。
足止めで30分ほどのロスをしなければ、仕事はきちんと時間内に収まる。

連日、どういう訳か明るいボスに話し掛けられても仕事の進み方に支障がないので、極めてにこやかに応対できる。
降って湧いてくるイレギュラーの仕事にもそれなりに時間が取れる。


比較的機嫌のいい状態で昼休みを迎えた。


昼からの仕事に入る頃、隣の席に置いているお弁当鞄が揺れる。
見ると、竜樹さんからメールが届いていた。


「おなか、すいたー(;ヘ;)
内科の検査があって、昼食食べたらあかんねんてっ!ちぇっ(-"-;)
今日は暑いなぁー(>○<)がんばっとるかぁ?」


検査ひとつ受けるのも大変なんだなぁと思いながらも、そんな一コマを届けてくれたことが嬉しくて、俄然機嫌をよくして仕事を始めた。


…けれど。


午前中とは打って変わって、いらいらどかーんなことがいくつも起こる。

「仕事上のことなんだから…」と言い聞かせてみたところで、どう考えても注意ひとつすれば防げるようなことばかり。
謝り倒したり、対応に追われたり、俄かにイライラは募ってくる。

ひとつ片付いたと思ったら、またひとつ降ってくる。
ミスの対応の状況、殆どわんこ蕎麦状態。


わんこ蕎麦状態は4時間近く続き、最後には怒る気力すらなくなった。


よったよたの状態で、社屋を後にした。


少々混雑した電車に乗る。
立ったまま開かない方のドア側に立っていたけれど、立ったまま眠ってしまいそう。
危うく乗り換えの駅で降り損ねそうになる。
ひやりとして少しばかり目が覚めたからか、ようやくお昼に貰った竜樹さんのメールにお返事。


「お昼抜き、大変やったね。夕飯にはありつけた?
今日はいらいらどかーんなことか続きましたが、何とか乗り切りました。
やればできるものです(笑)

帰りも外が蒸し暑くてへろへろになりそうでしたが、もうすぐ家にもたどり着けそうです。
やればできるものです(しつこい)」


空腹のまま眠るような事態だけは避けられますようにと願いながら、そっとメールを飛ばした。


家に帰って、リビングでプードルさんと格闘の後、夕飯。

最近、20時からパンパシ水泳を見るのが金岡ファミリー内でのお約束。
去年の世界水泳の時に比べたら、日本勢の活躍が目覚ましい。
かつて海衣が水泳をかじってたこともあって、金岡ファミリー、テレビの前で豆のように頭を並べて水泳観戦。


途中、携帯に姉さまから電話が入り、リビングから自室に移動して長時間話したおす。
もしかしたら、部屋の電話に竜樹さんから連絡が入るかもと思いながら話していたけれど、結局今日のお昼抜きが効いたのか、竜樹さんから連絡はなかった。


部屋の外でばたばたと音がする。
どうやら大雨が降ってきたらしい。
2階中の窓が開いてたらしく気がつかなかった私はちょっと怒られたけれど。


…雨が降る前は調子が悪いのに、その上お昼抜きだったなんて


連絡がないのは無理がないと理解できる。
けれど、調子が悪くないのにメールで状況を知らせてくれる、そんな気遣いがありがたく、愛しくもあった。


…雨が上がったら、もう少し涼しくなるといいね。


そうしたら、竜樹さんの患部は痛まずに済む。
そうしたら、手術まで少しばかり気分良く過ごしてもらえる。
ただでさえ不安が付き纏う大きな手術を前に、どうせならしんどいのは少ない方がいい。


雨が上がったら、青空が見えるように。
2人のいる場所に降る雨があがった時、そこに笑顔がありますように。


降り止まぬ大雨を見つめながら、そう願いつづけた。

大丈夫

2002年8月26日
何をするでもなくじっとしてるのが勿体無い気がして、ごそごそと日記を書く。
2日分の追っかけ更新が済んだ段階で、出勤まであと2時間。
そのまま起き続けても良かったんだろうけど、仕事に支障が出ても困るので無理やり眠った。

あっという間に朝が来て、重い身体を無理やり起こす。


…不眠も慣れるとやがてはしんどくなくなるのだろうかと、ぼんにゃり考えながら家を出た。


友達にメールを打ちながら、振り返る。
竜樹さんにとって、あのセカンドバックはずっと探してたもの。
それにつけてくれた財布は、彼自身が大事にしまっていたもの。
前倒しのクリスマスプレゼントにしては早すぎるし、ましてや誕生日はもっと先。
一番近い記念日にしても、2ヶ月以上先。


…何でこの時期なんだろう?


お魚のことにしても、随分先のことまで見越して決断したんだってことはよく判ってる。
彼の見据えている風景はどんな風景なんだろう?
その風景がどんなものなのか、そのかけらを拾いたくていろんなことを一緒くたにして考えると、どんどんどんどん建設的でない思考に陥っていく。


…考えたくなくても「もしかして…」って思ってしまう。


竜樹さんが聞いたら「勝手に解釈するな」と怒ってくれるかも知れない。
でも、手術を控えてる人に私の不安を除いてくださいなんて言える筈もないし、言いたくもない。
思考を立て直したくて、友達によろよろと思うことの概要を話してしまっているけれど、本当にそれでいいのかどうかも判らない。

そんな思考がただの睡眠不足からくる思考能力の低下から来るものなのか、それとも明らかに3年前よりも弱ってるのか。
判らないことだらけのまま、自分で糸口を見つけ出すことの出来ないまま会社について仕事を始める羽目になる。


適度に余裕のある程度の忙しさ。
それはいらないことに思考がはまり込まないで済む分、今の私にはありがたいものかもしれない。
書類を取りに行く作業は相変わらずストレスフルだけど、先輩に話し掛けられずに済んでるので今日はもうそれでよしにしよう。

事務所に戻れば、相変わらずボスと社長は明るい。
心からその明るさに乗る気にはなれないけれど、その明るさを蹴散らす必要なんて何処にもないから。
相変わらず少しでも面白いかな?と思ったことがあれば笑い、極力普段どおりに接するようには努力してみた。


…昼休みになったら、どかっと疲れたけれど(-_-;)


昼からはそれに睡魔がおまけについてくる。
注意を払わなければならない仕事が入ってくる時間帯ほど、眠くなったり集中力が欠けたりするのはどういう訳か。
いつもよりはるかに濃い目のコーヒーを流し込んで、ようよう意識を繋ぐ。
それを何度か繰り返して、定時によろよろと会社を出た。


自転車をかっ飛ばして駅に着き、ホームで電車を待つ間に携帯に届いたメールに目を通す。
姉さまからのメールはなかったけれど、大好きなお友達からメールが届いていた。
いつもいつも私のくだらない話に付き合わされる、ある意味気の毒だけど私にとってはありがたいお友達。


人に自分がどう不安なのかを伝えなれてないせいか、もしかしたら必要以上に強く伝わりすぎたんじゃなかろうかと気になって仕方なかったけれど、ただそのままそっと受け止めてもらった感じがする。

メールを読み進めるうちに、心にふっと飛び込んできた。


…それは「大丈夫ですよ」という言葉


根拠レスになことを言葉にしない方がいいというのは、言うまでもないことかもしれないけれど。
それでも伝えたい感情があることがある。
結果としてそれが大丈夫かどうかは誰にも見えなかったとしても、「大丈夫だよ」という言葉をくれる人の想いがそこに詰まってるのが受け取れたなら。


少なくとも、私にはそれで十分なんだと思う。


竜樹さんの健康問題について根拠を明確にした上で言えるのは、きっと執刀医の先生だけ。
他の誰も、きっと竜樹さんもその根拠を明確にしてなんて言えっこないんだと思う。
けれど、友達の「大丈夫ですよ」という言葉の中に、暖かな気持ちがうんとつまってるのは、ちゃんと感じ取れてる。


ただ、そう言って心の傍にいてくれてることを素直に嬉しいと思う自分がいる。


…だから、それで十分なんだ。


3年前のように不安を完全に払拭しきれるほどの希望は、私の中にはないのかもしれない。
それは前回の結果がどうなったのかという記憶が脳裏にあるから。
それを振り切れるだけの「根拠」とやらは私の中から捻り出すことは出来ない。
だから、手術が終わるまで、もしかしたら手術が終わっても暫くはその不安に苛まれる日々は続くのかもしれない。


昔の自分に今の自分は負けているのかもしれない。


けれど、大切な人たちの暖かな気持ちをただありがたいと思って受け止められてるうちは、それに応えたいと思う気持ちが死んでないうちは、まだひっくり返せる余地はあるのかもしれない。


「大丈夫」


その言葉の底にある想いを、かつて自分もまた誰かにそんな想いを伝えたくて乗せた言葉にただ嬉しさと安心を得た気がした。


ありがとう。


ただやるせなくて…

2002年8月25日
今度は持ち物確認をして(笑)、竜樹邸を後にする。
車に乗って、近くのラーメン屋さんへ行く。


2人とも相変わらず、いつもと同じ物を食べている。
外食するのが珍しいからとあまり突飛なことをしないのが、竜樹さんらしくていいかとも思う。

ふと顔を上げると、竜樹さんがごそごそ何か探している。

「どしたんですか?」
「いや、持ってきたはずの煙草がないねん(・・ )( ・・)〜?」

鞄やらシャツのポケットやら探すけれども見当たらず。
しかも、出る前に持ち物確認までしておきながら、ピルケースまで忘れてきた(>_<)
煙草はともかく、食事の後患部が痛むのを抑えるためのアイテムがない。

仕方なく、殆ど空のどんぶり鉢やお皿を前にしながら、じっと竜樹さんが動き出せるまで他愛もないことをぽつりぽつりと話しつづける。
暫くはふんふんと聞いてる竜樹さんがようやっと受け答えできるところまで回復されたので、店を出て竜樹邸に戻った。


竜樹邸に着いてから、暫く休んで帰り支度を始める。
その時、竜樹さんがぽつりと言った。


「…飼ってる魚、手放そうと思うねん。
本当は食事に出る前にそれを手伝ってもらおうかと思っててん」


入院が早まったこと、そして術後の経過が判らないことで、彼が考えていたよりも入院の期間が長くなるかもしれない。
竜樹邸を長く留守にすることで問題になるのは、お魚のこと。
ご両親は彼のおばあちゃんのお世話もしないとならないので、お魚の世話にまで手が回らないらしい。

「私、会社帰りに寄ってもいいし、家族に事情を話して暫くうちで預かってもいいですよ?」
「それやと霄がしんどいやろ?無理やって」
「小さな入れ物あったら持って帰ります。水替えだってやったことあるし、できますよ」
「でも水はどうすんねん?水道水をカルキ抜きしても、そうそうもたないで?」
「水も持って帰ります。足りなきゃ、取りにきます」


暫く押し問答し、持ち帰って預かるための入れ物を探したけれど見つからず。
けれど、ひとまずは返事を保留にしてくれた。


…家に帰ったら、お魚を育てるスペースを空けなきゃ


そう思いながら、竜樹邸を後にする。
車の中での竜樹さんからはあまり堅い感じを受けなかった。
体調がそう悪くない時のような雰囲気に安心して別れた。


家の中に入り自室に戻ってから、俄かに片付けを始める。
お魚を預かるスペースを作るために一生懸命片付け、ある程度の目途がついたので横になり意識が落ちるのに任せた。


次に起きたら、頭が痛くて仕方がなかった。
昨日取り立ててしんどいことをした訳でもないのに何でかなと思いながら、暫く横になってうめいていた。

頭痛が少しやんで、竜樹さんに電話をしたけれど出てくれなかった。
鍵を貰ったのだから、別に自分で小さな容器を持ってお魚を引き取りに行けばいいのだけど、本人がいるのに連絡もなくお邪魔するのもどうかと思うので、暫く家で待機。
そして電話をしては待つを繰り返した。


竜樹さんが捕まることなく夕方になり、仕方なく姉さまに頼まれていた作業を始める。
時折姉さまから貰うメールに返事をしながら作業をし、竜樹さんに電話するけれど相変わらず出られない。


…昨日の疲れが出たのかな?


夕飯を食べに降りて、後片付けをして、また作業の続きをしてる間もずっと竜樹さんの体調のことが気になっていた。


作業が一段楽し、姉さまから届いた「今度の食事会にこのレストランはどう?」という提案メールに喜びながらも、竜樹さんとお魚のことが頭を離れなかった。


日付が変わる少し前になって、ようやく竜樹さんから電話が入った。
相変わらず日中はしんどくて横になっていたという話を聞き、自分の予想が違わなかったことにちょっと胸を痛めながら話を聞いていると…


…竜樹さん、私がいない間にお魚を手放してしまわれていた。


「私、引き取りに行くって言ったじゃないですか。
だから何度も電話してたのに…」
「それでも霄に迷惑かかるのが嫌やったから…」
「ちゃんと預かれるようにスペースかって空けてたし、その用意はしてたのに…」
「…そっか、準備してくれててんなぁ」


いくら自分が思ってることを言葉に置き換えたって、何の意味もない。
どんな言葉にしたって、それを受けて心を痛めるのは竜樹さんなんだから。
竜樹さんを責めるために言葉を紡いでいるんじゃない。
自分がしたことの事実を伝えたところで、竜樹さんの心が痛むだけ。


…諦めたくて手放したわけじゃないことくらい、傍で見てたら判るもの


私が預かることを信じてなかった訳ではなかったみたいだし、今となってはもうどうすることもできない。


…結局、私は「病気の袋を持つことは、いろんなものを諦めること」という彼の中にあるある種の不文律を打ち破ることすら出来なかったんだ。


きっと、それが事実なんだろう。
自分の力が足りなかったことだけが、事実なんだろう。


電話を置いて、机の上の空いたスペースに目をやる。
自分の無力さの象徴のようなそのスペースを見て、涙が止まらなかった。


飼ってる魚が卵を産んだこと、その卵が孵ってお魚の赤ちゃんがちょろちょろし始めたこと。
それを喜び、お魚が長く生きられるようにと配慮してきた竜樹さんの姿を知ってるから。
それがただ単に手に負えなくなったからじゃなかったことは確かなのだと改めて思う。
いろんなものを諦め、手放してきた彼に諦めないこと手放さなくても済むことが確かにあるんだと、一緒にいることで手に入れて欲しいと思ってた。
そのためにできることを惜しむつもりはなかった。
7年間ずっとそんな風に思いながら歩いてきたけれど…


…でも、そうしたところで何も出来なかったから、この結果なんじゃないか


ただやるせなさしか自分の中から生まれてこない。
思考はますます迷路に迷い込む。


何もする気にはなれない。
さりとて、休む気にすらなれない。
考えても何も生まれない。
だけど、何をすればいいのか見えてこない。


ただただやるせなさに押し潰されそうになりながら、これからどうするべきなのかをずっと考えつづけた。

最初の週末

2002年8月24日
竜樹さんが入院して最初の週末。

昨日の夜から竜樹邸に戻ってきてるとのことで、張り切って早く出るつもりがまた寝すぎてしまった。
相変わらず頭痛がひどいので少々うめいてはいたけれど、うめいていても埒があかないのでシャワーを浴びてぼんにゃりとした意識を無理やり覚ます。

丁度出かけようと思った時に昼食が出てきて、ひとまずおにぎりを2個だけ貰って出かけた。


先週慌てて病院に入院したので足りないものもいくつかあるらしく、いろいろと手伝うべきことはある。
体力的に少々自信はないものの、そんなことも言ってはいられない。
坂道を駆け下りて、ホームに滑り込んできた電車に乗る。
電車の中で少し涼んでまた移動。


予定が早く済めば、夜から遊びに行く予定にはしている。
花火やら何やらいろいろ予定が流れてきたので、なるべくなら竜樹さんは行きたいと話していた。
でも、それはあくまで予定であって、本決まりではない。
場合によっては夕飯を作らなければならなくなるけれど、買い物をすると更に竜樹邸に着くのが遅れる。


…冷凍庫に入ってるものの在庫整理料理で勘弁してもらおう。


そう勝手に自分を納得させて、バスに乗り込む。


車窓から差し込んでくる光はまぶしい。
日よけをしても、太陽の熱だけは日よけを通しても伝わってくる。
バスを降りると、一番日が高い時間だからか気温も高い。
この調子じゃ竜樹さんの体調がいいとは思えないけれど、それならそれできちんと手伝って、笑顔だけでも渡せたらいいやと思う。


竜樹邸に入る前にメールがひとつ。


「今、どの辺まで来てる?」


…あのぉ、竜樹さんの家の前なんですけど(^-^;


そう思いながら、竜樹邸のドアを開ける。


「あぁ、よぉ来てくれたなぁ。どの辺まで来てたか、心配やってん」
「ごめんなさい、ちゃん連絡しないで」
「構わへんよ。少し涼み」


勧められるまま涼み、それから台所の片づけをしたり、竜樹さんの指示に従って必要なものを旅行鞄に詰めていく。

…ついでに、テレビも箱に詰め込んで、持って出られるようにしておいたp(*^-^*)q


2人で一緒に荷造りをして一息ついた頃、「お腹がすいた」と竜樹さん。
冷蔵庫を物色してると、「久しぶりに食べに出ようや」と仰る。
その時、セカンドバッグを持たせてくれる。
中には長財布がひとつ入ってる。


「霄が欲しかったらあげようかなって思っててん。欲しい?」


その財布はずっと私が欲しいなぁと思っていたもの。
鞄は既に廃番品らしく、竜樹さんが個人的に欲しいと思って探し歩いて見つけたものらしい。
手に入れた経緯を嬉しそうに話してくれる竜樹さんを見てると、まるでそのアイテムそのものが小さな竜樹さんのように思えてくる。

「…頂いても、いいですか?」
「ええよ、その代わり霄自身で払ってな♪( ̄ー+ ̄)」

……………(/-\*)


そんな冗談に少しばかり固まりながら、竜樹邸を出る。


車に乗って、近くに出来たというイタリアンレストランに行く。
土曜日の夕方前なのに、何故か結構混雑している。
窓側の席に座り、2人で景色を眺めながら電話で話せなかった近況報告をしあう。

「ご飯を食べて背中が痛まなかったら、少し家で涼んでから遊びに行こうか」
「大丈夫ですか?」
「体調がよかったら、あとは気力で持たすから大丈夫や」

そう言いながら、料理を2人で仲良く取り分けていたけれど。


…竜樹さん、痛み止めを家に置き忘れてきたらしい(>_<)


俄かに辛そうにされてる様子にどうすることも出来ず。
お店で少し休んでから、竜樹邸に戻る。
竜樹さんが横になってる間、後片付けをしたり、ちょっと不安げな竜樹さんの傍に座っていたり。


少し休んで落ち着かれたのか、竜樹さんが触れてくる。
安心が欲しいのだと触れる手から伝わる感じがして、素直に応える。
熱を受け渡す竜樹さんは強気な部分と不安な部分が同居してる感じ。
それが私の不安を増幅させるというよりも、寧ろ竜樹さんの本質の部分を垣間見る気がしてちょっとだけほっとする。
そんなところを知る人はきっと数少ないのだと思うことは、自己満足の域を出ないことかもしれないけれど…


ひとしきり熱と想いを受け渡して、くすーっと眠る竜樹さん。
時計を見ると、「元気だったら行ってみようか?」と言ってたイベントには間に合いそうにない。
「出かけたかったな」という思いもあるけれど、竜樹さんに必要以上の無理はさせたくなかった。
時折、辛そうな、でも時折安心したような表情を見せる竜樹さんの傍でじっと竜樹さんが眠る様を眺めていた。


暫くして、遠くから賑やかな音が聞こえてきたので2階に上がってぼんやりとその方角を眺めてみたり竜樹さんの飼っているお魚を眺めたりして過ごした。
そのうち目を覚ました竜樹さんに呼ばれて、階下に降りる。
熱いお茶を飲みながらまた取り留めないお話。
竜樹さんは今日しようと思っていたことを書き留めたメモを眺めてチェックを入れてる。


…その中で1箇所、気になる記述があったのだけど。


この時はその話題について触れられることはなかったので、敢えて私も問い質さなかった。
そうして今後の指示を竜樹さんから受けてる時、竜樹さんから鍵を渡された。

「もしかしたら、ここへ取りに来て貰わなければならないようなことが発生するかも知れへんし、持っておいて」


そして、竜樹邸の鍵を預かった。


「何となく小腹すいたし、食べに行こうか?」


そう言って再び出かける。


遊びにはいけなかったけれど、どこか楽しい時間を差し挟んだ、そんな入院後最初の週末。

風をくれる人

2002年8月23日

L’aimez-vous vraiment?

Une telle chose est une chose bien connue.

Je l’aime.

Toute n’est pas ma verite bien que reflete dans vos yeux.

Une telle chose est la connaissance naturellement.

               
               
               
朝起きたら、心に刺さり続けてた小さな刺がぽろりと落ちた。
それは会社を休んで一日早い週末を迎えたからだろうか?
それとも来るべき時が来たからなのか。
いずれにしても珍しくいつもよりは機嫌の良い朝を迎えた。


今日は宝塚歌劇月組公演の初日。
先月の発売日にチケットを押さえられなかったので、代わりに別ルートからチケットは押さえたけれど。
届いたチケットは、封も開けずに放りっぱなし。
しかも有給を取得していたことも、昨日会社に行くまで忘れていたという体たらく。
相棒と約束してた当時はまだ竜樹さんの再手術がこんなに差し迫ったものではなかったし、「まぁ、たまに遊びに行くくらいいいか」と思っていたけれど。


…何度考えても、今遊びに出かける気はしない。


けれど、人外魔境に等しい会社に行く方がもっと気乗りしない。
だからきっとこれはこれでよかったのだと、迷う気持ちに蓋をして用意を始める。


のたりくたり用意してるうちに、待ち合わせの時間に少し遅れそうな気配。
相棒に電話してその旨を伝え、慌てて用意して家を飛び出して、坂道駆け下り駅に向かうと…

…電車は行ってしまった。


へなへなときかかってるところに携帯が鳴る。

「霄ちゃん、今どこにいるん?」
「一本電車逃したから、暫くかかると思う。ごめんm(__)m」
「じゃ、先にお店に入ってるね(*^-^*)」


電話を切ってベンチに座ると、今度はメールの着信音。


…大好きなお友達からだった(*^-^*)


定例の朝メールをすっとばして心配をかけてしまった模様。
ただ朝が少し遅かったためにメールを届けるのが遅れてしまったこと、しかも会社休んでお気楽観劇なんていうオチ聞いたら「心配するんじゃなかった」と静かに後悔されるだろうと思ったけれど。
ひとまず自分の近況を伝えるメールを曇り空に放ち、ホームに滑り込んできた電車に乗った。


予定よりもだいぶ遅れて、相棒の待つ店に到着。
相棒はチキンとほうれん草のパスタを、私はバジルソースの冷製パスタを注文。
遅れてきたとはいえ、15時開演までにはかなり余裕のある待ち合わせ時間の設定だったため、二人して近況報告話に花を咲かせながら、楽しい食事をとる。


その後、宝塚大劇場までたらたら移動。
途中、初日にもかかわらず随分サバキが出てる。

「昔やったら『売ってください』な人の方が多くなかった?」
「だって、この演目ならそんなに『どしても観たい』て思う人のほうが少ないでしょ?」

相変わらず、相棒は辛口。
そりゃ、私も彼女ももっと錚々たるメンバーの時代を知ってるから、そう感じるのは無理もなかったんだろうけど…

本拠地でボロカス言ってたら、そのうち刺されるぞとびくびくしながら座席に着く。
開演まで暫く喋り、やがて場内が暗くなり、リカちゃん(月組トップ 紫吹 淳)のアナウンス。


月組公演初日が始まった。


前半は「長い春の果てに」というミュージカルプレイ。
元々、劇にはあまり期待してなかった。
と言うのも、前回の「ガイズ・アンド・ドールズ」でリカちゃんしか追えなかったという状況だったから(爆)

ただ、本来男役であるはずのコウちゃん(専科・汐風 幸)が女性の役を演じてて「わぁ、キレイだなぁ」と思ったり、時々台詞を噛むのに笑ったり。
リカちゃんは相変わらずカッコいいなぁと、惚れ惚れしたり(爆)
相変わらずこの組はアドリブで笑わせてもくれるから、自分の置かれてる状況に意識を向けなければ、それはそれで楽しめたのだろうけど…


今の私には、医者と難病を抱えたクランケの話と言うのは、かなりキツイものだった。


手術中に患者を死なせて二度と手術をさせてもらえなくなって自堕落路線に入ってる医者の前に女の子が現れ、引っ掻き回されながらも自分らしさを取り戻していく。
けれど、その女の子は脳の難しい位置に血管腫があり、このままだと助からないという。
結局、いろんな人とのやり取りや交流の末に、不可能なはずの手術は実施され、その女の子も助かり、最終的にはハッピーエンド。


ハッピーエンドに持ち込むために、随分「これはないだろう?」と脚本的に突っ込めそうなところもあったけれど、それ以前に取り扱ってるテーマや内容そのものが今の私には痛かった。


…気分転換に宝塚を観に来て、どうして鬱屈とした思いを抱えなきゃならないんだ。


演目は去年の末には発表されていたから、そんなん言いがかりでしかないと判っているけれど、正直「観に来るんじゃなかった」と思った。

時折、相棒が「見てみ?」とオペラグラスを渡しては、劇とは直接関係のないことをこっそり教えてくれたから、逃げ出してしまおうとは思わなかったけれど…


そのあと30分ほどの休憩を挟んで、ミュージカル・レビュー「With a Song in my Heart」。
「南太平洋」や「サウンド・オブ・ミュージック」の曲を作った、リチャード・ロジャース氏の生誕100周年記念のレビュー。

よく知った歌が流れるから、とっつきはいいと思う。


…けれど、私、少しの間、寝てました(爆)


前半で感覚と意識をフル動員して観てた所為もあるのか、かんなり疲れてた時間帯があった。

それを知ってか知らずか、また相棒がオペラグラスを貸してくれる。


「リカちゃん、足、めっちゃキレイっしょ?」


………………(・∀・)♪


ダルマ(男役の人がレオタードに編みタイツ、ハイヒール穿いてます)で登場のリカちゃんの足は確かにきれいだった(爆)
あまり自分の事情に障らないレビューは脱線モードな視点は入りながらも楽しめた気がする。


レビューの後は、初日のご挨拶。
組長の夏河ゆらさん、喋る喋る。
早口でいっぱい面白いことを話すので、場内爆笑の渦。
リカちゃんの挨拶は割りと淡々としてるけれど、さり気に面白かった。
挨拶終了後、場内の拍手で更に2回幕があがってご挨拶、でホントに終了。


その後、お昼にランチを食べた店でお茶して喋り、駅のホームでもまた喋り。
大概な時間になったので、ひとまず別れた。


「…なんて一日だったんだろう」


まるで去年の末から既にこの時期私がこんな風になるのを見透かしたような演目に心は曇ったけれど。
劇を見て「辛いな」と感じた時、風向きを変えてくれる人がいる。

時にふっと意識を外せる風をくれる人と時間を過ごすことも悪くはないのかもしれない。


いろいろと思うことはあったけれど、相棒に逢えたことがこの日一番の気分転換になったのかもしれない気がした。
昨晩は再び、何をするでもなく眠れなかった。
日記の下書きも1日分上がっていて、あと少しの作業で完全な形に持っていけたはずなのに、その「あと少し」が出来ず。
さりとて、すこんと眠ることも出来ずにだらだらと起きていた。


おかげさまで、ひどく眠いまま家を出る羽目になった。


意識がどこか途切れがちの状態のまま、メールを飛ばして会社に向かう。
事務所に上がって戦闘態勢を整えようと退社後机の上に積まれた書類を仕分けながら、ふとデスクカレンダーに目をやった。


…あ、私、明日休み貰ってたんだ。


会社のデスクカレンダーを見るまで自分が休みを取ってたこと、忘れてた(爆)
明日は相棒と久しぶりの宝塚観劇。

月組公演の初日のチケットが取れても取れなくても、休みは取っておくように言われてて、並びの日には取れなかった初日のチケットが後日簡単に手に入ってしまったために有給取得が無駄にならずに済んだけれど…


正直、こんな事態になってまで宝塚なんぞ観に行く心境ではない。


初日のチケットが獲得できた段階では、手術の日程は決まっていたけれど、入院の日程は決まっていなくて。
9月に入ってからならお断りするけど、まだ8月中だし大丈夫かという楽観的な部分も残していた。

宝塚の公演日程は去年の終わりっ頃には既に決まっていて、「取り敢えず、月組公演と星組公演くらいは行こうね?でないと、会う機会なくずるずる疎遠になりかねないから…」と相棒と約束してたんだけど。


どうしても、娯楽に出かける心境ではない。


相棒にそう言えば、「霄ちゃんが神経質すぎるんだよ。病院に入ってしまったら、霄ちゃんがどう思おうと病院の人らが面倒見るんだから!」と一蹴されて終わるだろう。
事実、相棒のそういう部分には随分救われてきたから、今回だけ約束を反故にするわけにもいかないだろう。


そんな、仕事よりおおよそ脱線しまくったことを考えながら電話を取ったり、書類を回したりしながら、ふと我に返る。


…それやったら、明日の分の仕事も今日中に準備しないとあかへんやん?


今日は月2回の洗濯当番の日。
ただでさえ、洗濯がある日は通常フローがスムーズに片付かなくなる。
その上、明日の仕事の準備をし、担当者に配って歩かないとならない。
それを怠ると、フォローしてくれる同僚さんにも迷惑がかかるし、戻ってきたらひっくり返りそうなミスが乱発されてる恐れすらある。

尤も、それだけの準備をしていってもなお、とんでもないミスを繰り出してそれの修復で一日が終わることだってあるんだけど(-_-;)


慌てて流し場にある台拭きと食器拭きをかっさらい、更衣室まで駆け下りタオルの詰まった籠を引ったくり、洗濯機のあるフロアまで駆け下りて洗濯を始める。


その後、洗濯機の相手と朝の定例の仕事とを行き来して、あっという間に午前中は終わってしまった。


洗濯は午前中には終わるから良いものの、洗濯機の相手をしながら仕事を進めるとどうも仕事の進みが悪くて、朝のフローの3分の1くらいを昼間に持ち越す羽目になる。
昼休みを半分くらい食いつぶして仕事をし、慌ててご飯を食べ、ボスと社長にお茶を煎れ、雑談の相手をする。


昼からはもっとぐったりしながら、仕事を始める。


親会社への問い合わせ書類を作り、夕方からの大きな仕事の準備をしながら、明日履行されるだろう仕事の準備品を作る。
そこへ電話取りやら、親会社の人からの質問に答えたりする作業も入ると、仕事に余裕もへたくれもなく、常にばたばたとしてる状態。


何とか定時には仕事は終えて出ることは出来たものの、ぶっくたびれてしまった。


今年に入ってから、業績が悪い関係上、残業代がもらえない。
正確には、もらえるけれど課長に申請書を提出して、それが認められるに足りる理由でなければ認められないだけの話。
課長からじきじきに「極力、残業はしないでくれ」と言われてるので、何とか時間内に詰め込まないとならない。

で、帰りは電車の中で寝たくれそうになるほど疲れるというオチ。


寝不足の上に、仕事が詰まりすぎてた所為でよたよたとしながら、相棒に渡すプレゼントを買うために寄り道。
少しだけ迷った末に、「これぞ!」と思うものを見つけ、購入。
取って返して駅に向かい、電車を乗り換え移動を続ける。


電車を待っているところにメールがひとつ。


…竜樹さんからだった(*^-^*)


同室の人とのことが書いてある。
笑ってはいけないと思いつつも、取り敢えず険悪な部分もなく、何とかやってはることが伺えて一安心。
簡単なお返事を添えて、夜空にメールをひとつ放って機嫌よく帰宅。


途中姉さまから電話が入り、少しばかり話してからご飯を食べ、後片付けまで済ませて自室に戻ると、携帯に着信有。
そしてメールがひとつ。


…呑気にご飯を食べてる間に、竜樹さんから連絡があったのだ。


・゜・(ノД`;)・゜・ 


いつもと違って、連絡もらえたから折り返しかけなおせる環境じゃないのに…
「携帯くらい持って歩けよ、家の中でも!」と自分で自分に怒りながら、メールを開くと…


「明日、帰宅する。金よう日の夕方から、土、日と外泊するわ。調子がよかったら。とりあえず、報告しとくね(*^-^*)」


そんなメールで俄然気をよくして、すぐさま返事を返す。


「一時帰宅嬉しいです♪(*^-^*)
電話出られなくて、ごめんなさいm(__)m
食事してたのです。

お帰りの暁には、いろんな奉仕をせねば!(笑)」


…「いろんな奉仕って、なんやねん!?」と自分に突っ込みいれながら、漆黒の夜空にメールを飛ばし、ひと心地。


いろいろありはしても、ひとまず竜樹さんが安心できるような自分でありたい。

瑣末なことはそれなりに降りかかってはくるけれど、その中からでも笑顔が渡せるようでありたいと思いながら、そっと夜空を見上げ続けた。

Serment de verite

2002年8月21日
朝起きたら、昨日よりも更に喉が痛かった。
しかも、昨日からずっと身体の中で暴れ回るお客と格闘。
精神的も上向きにならないのに、身体の調子まで悪いといい加減うんざりしてくる。


けれど、昨日竜樹さんが無事でいてることがわかったからよしとしようか。
昨日の日記には書きそびれてしまったけれど、竜樹さんからようやく連絡をもらえた。
入院した日はずっと体調が悪くて寝ていたらしく、昨日も調子は悪かったらしいけれど、何とか電話するだけの余力は残していたよう。


…今日は帰ったら、電話機の設定を直さないといけないなぁ


ガードの固い私の部屋電話では、番号非通知の電話は勿論、公衆電話の電話すら着信拒否する有様。
病院には公衆電話しかないもんだから、このままの設定のまま部屋電話を放りっぱなしにしておくと携帯にかけざるを得ない竜樹さんの財布に痛いから、ちゃんとしとく必要がある。

何より、ぼんぼん度数がなくなってくのを見ながら、落ち着いて話すなんて難しいもの。


そんなことをぼんにゃり考えてるうちに家を出ないといけない時間になり、慌てて用意をして家を飛び出す。


秋物を着ないと風邪を引きそうなくらい、外は涼しい。
こないだまでやたら蒸し暑くて、その空気に触れるだけで体力消耗しそうな感じすらあったというのに、8月も終わりに差し掛かるとこうまで違うものなのか?

気をつけないと、風邪をさらに悪化させそうな感じ。
ひとまず、会社で冷えすぎると感じたら上着を着ようと思いながら、定例のメールを飛ばし、会社に向かう。


「おはようございます」


事務所に上がる前に制服に着替えるために、更衣室のあるフロアに行くのだけれど。
昨日からずっと、このフロアにいるパートさんの視線が不可解。
一度左手を見て、ふいと泳ぐ。


…あぁ、なるほどね。


どうやら、これが原因らしい。


左手にしてる、指輪。


3年前、二人でペアリングを買った。
それをつけたからといって何が変わるわけでもなく、手術の際にそれをはめたまま手術室に入れるわけでないと知りながら。
互いの自宅から遠くに離れた病院で長期間の入院を経て、やがて来るべき手術に向けてお守り代わりに出来たらと思って買ったのだ。


ただ、生来「お揃いのものなんてこっぱずかしくて持たれへんわ」という性質の竜樹さんだから、そんなものはアイデアを出した途端却下されるだろうと思った。


けれどそんな話を持ちかけた時、珍しく「ほな、買いにいこか?」とあっさり動き出してくれたこと。
竜樹さんのプラチナ好きを考慮すると、マリッジリングのラインしか選択の余地がなくて、「結婚するわけじゃないのに、ヤだろうな」とペアリング購入を取り下げようとした時、「互いが大事に出来るものにしよう」と敢えてマリッジラインのものを選んでくれたこと。

身体の具合だって決して良くなかったのに、「二人ともが納得いくものをみつけようや」と歩き回って探してくれたこと。
サイズ直しに出して再び二人で取り入った時、ちょっとしたアクシデントがあって少々笑ってしまったこと。

部屋で、私が竜樹さんの、竜樹さんが私の左手の薬指にはめあいっこして、その指にキスをしたこと。

「二人で頑張ろうね」って想いを交わしたこと。

それから二人が一緒に歩いてきたこと。
二人の歩く道は決して手術後も穏かではなかったこと。
嫌なこともそれなりにあったけれど、最後には想いだけが残ったこと。
そのすべてをこの指輪は知っている。


竜樹さんは少し太ってしまわれたのか(失礼)、もう左手にしかその指輪は入らなくて、「結婚したんですか?」と聞かれまくるのに対応するのが煩わしくてしてくれなくはなったものの、ずっと持ち歩いてくれてる。

私も左手にしてることの事情を関係もない人に説明するのが煩わしくて、ずっと右手にしてたものの書き物をする時に邪魔になるからと外してしまう。


今回は前回以上に気力を繋がないといけない。
希望だけで気力を引っ張っては来れないだけの事情があるから。


だから、竜樹さんが左手にしか入らないというのなら、左手にしてさえいれば作業の邪魔になるからと外さないで済むというのなら。


そう思って、竜樹さんが入院した昨日からずっと左手にしてる。


「金岡さんの結婚の話」はパートさんの間では噂のネタになっていて。
入社前から付き合ってる彼(竜樹さん)と結婚する訳でもないし、この際会社で結婚せずにいてる男性社員とくっつけたら話のネタにつきることはないしと、やたら会社の人との交際を勧めてくる。

「大きなお世話じゃヽ(`⌒´)ノ」と思いながら、「いやぁ、私、今の彼との付き合い方に不満なんてないんですよねぇ」とか、「結婚することがそれほど重要やとも思わないんですけどねぇ」とか適当なことを言って流していた。


竜樹さんと結婚したくないわけじゃないし、寧ろその逆かもしれないけれど。
そんなことを昼休みに語る面白いネタ欲しさに寄ってくる人にいちいち説明する必要もない。


…ご心配なく。竜樹と結婚する頃には、あなたたちとは関わりのないところに移動してますから。


泳ぐ視線をすり抜けて、事務所にあがって仕事を始める。


さすがにおじさん連はそういうところには少々無頓着なのか、あまり視線も泳がない。
ちょっとみて「あれ?」という顔をした人はいたけれど、別にそれで対応が変わるわけでなかったので気は楽だった。

ただ、ボスだけが「金ちゃんにはどんな男がええねやろなぁ」と連呼しておられたけれど(^-^;


…いやぁ、ボス詣しないで済むうちには消えうせるよう、努力しますから。


意味不明なことを思いながら、何食わぬ顔をして仕事を進める。

時折視線が泳ぐ人たち以外のことでは終始機嫌よく仕事を進めることは出来た。
あとは自宅に帰って、部屋電話の設定を直すだけ。


大急ぎで自宅に戻って、部屋電話のガード機能をすべて外し、夕飯をとる。
後片付けをして戻ってくると、携帯にメールがひとつ。


「ガード解除、できたかぁ?また、急に痛なりだした(>_<)」


即座にメールを返す。

「一応、すべてのガード機能をはずしてみました。
涼しいから少しマシかなと思ってたけど(-_-;)
ゆっくり筋トレしてこうね?」


すぐに返事が届く。

「明日にでも、試してみるわ!」


明日もお話できるんだと思うと、それがただ嬉しい。
ほっとして、身体に溜まってただろう鬱屈をそっと息に乗せて吐き出してみる。


思うところはいろいろあるのは事実。
それがなかなか前向き思考に切り替わらないことに問題があるのも事実。
不安があるのも事実。


けれど、二人の心に確かにあるもの。
それが二人が歩く上で大きな力になっているのも事実。


「Serment de verite」


3年前に交わしたあの日から、いろいろあってもその気持ちが壊れることはなかった。
その気持ちが壊れかかっても、必ずその想いは蘇った。


二人が交わした誓いは真実。
その想いを守りたくて、今を生きてる。
竜樹さんが入院してから2回目の朝が来た。

どんな様子でいるのか、どんなところにいるのか、全く判らないままの状態は必要以上の不安を連れて来る。


前回入院した病院のように同じ部屋に沢山の人がいて賑やか過ぎて気が休まらないというようなことがなければいいのだけど…

簡単に連絡が取れる場所でないことくらいよく判っているので、闇雲に心配してみても仕方はないとは思いながら、それでも気がかりは広がっていく。


ただ、病院にいれば急に具合が悪くなっても、すぐに病院の人が対応してくれる。

その点については竜樹邸に一人でいてるよりも不安はない。


いずれにしても、根本的な問題が解決しなければ、不安が消えるなんてことはないのだけれど…


外は、やたら涼しい。
先週までの暑さが嘘みたいな感じ。


…これくらい涼しいと、竜樹さんもきっと大丈夫だろう。


例年、この時期と寒さが厳しくなる頃にがくんと体調を崩される。
それと仲良く付き合いながら生きていくのは難しいから、もう一度手術を受けるのだけど…


本当は手術なんてさせたくはなかったと思いながら、それでもしなければ今より良くなることはないのだと思いながら。

心は何時までも綱引きを続けている。


どうやら風邪を引いたのか、ずっと喉が痛い。
今週末には多分竜樹さんに会いに行くだろうから、それまでには治しておかなきゃならない。
やることは多いのに、どこか不調だらけで蹴躓いてる感じが抜けない。
気持ちはどこにもありはしないのに、普通にお客さんともボスとも話をして笑い、仕事を進めている私。


…気持ち以外の部分は、気持ち悪いくらい普通の生活をしている。


それがどこか不誠実な気がしてまたへこむけれど、それはそれで仕方ないのかもしれない。


…気にかかることがあるからといって、仕事を放棄する訳にもいかないんだから。


そう言い聞かせて、いつものように仕事を進め、いつものように笑いつづけた。


がっくり疲れて、会社を出る。
眠りこけそうになるのを何とか食い止めながら移動を繰り返し、家に辿り着く。
夕飯を食べるまでぼにょんと休んでいるけれど、うっかりすると眠ってしまいそう。

それすら不謹慎なのかもしれないけれど…


夕飯を食べて後片付けをして、自室に戻る。
ゾンビっちを開け、姉さまに頼まれている作業を始めて暫くすると、姉さまからメールが入り、そこからはメール合戦と平行して作業を続ける。
少々てこずりながらも作業のひとつが終わり、また次の作業の準備に入る。


そうしてるうちに、携帯が鳴った。


姉さまからだった。
左手に携帯、右手でマウスを動かし、キーを叩く状態で作業は続行。
今度の作業は先ほどのそれと比べたら、異常にてこずる。
そのてこずり方が稀に見ぬものだったからなのか、それともただ単に互いに疲れてるからかよく判らないまま、ただただ笑いまくる。
結局、姉さまの指示が的確だったのと私の気力が切れずにいてくれたおかげで、ようやっと作業は終わる。

それから暫く電話で話して、ようやっと賑やかな会話は終了。


風邪気味で痛かった喉は、もっともっと痛くなっていた。
ついでに笑いすぎで、腹筋まで痛かった。
お風呂に入って汗を落として部屋に戻って灯りをひとつ落とす。


…こんな状態でも笑えるんだ。


さっきまで笑いながら姉さまとお話してたことを振り返って、少し心が冷えた。
竜樹さんがしんどい思いをしてるだろう時に、私はやってくる出来事それぞれにそれまで通りの反応を返してる。
確かにそうしてられてるうちは、周りにいる人を騙し続けてはいられる。


「あぁ、竜樹が大変でも、取り敢えず金岡は大丈夫だろう」


そう思っててもらえる方が気楽でいい。
特に、長いこと付き合ってる友達には前回の時も「堪えてます」という表情は見せなかったから。
前回同様、おおっぴらに心配されずにいてるというのは、ひとつ荷が下りたような感じがしていいのだけど…


…感情はどうあれ、普通に生活は出来るもんだね。


今更なことを思って、また自ら奈落に落ちていく。


日常や生活はどこまでも感情を置き去りにして進んでいく。
それまでと何ら変わりもなく、嫌なことも楽しいことも感じ取って反応してる自分自身が、何だか嫌でならない。
竜樹さんが入院して自らの病気と格闘するに当たって、私が普段どおりの生活を送ってる方が負担が少ないのだということもわかってるし、笑ったり怒ったりすることが悪いことではないのだと思う部分もあるんだけど。


感情の奥底にあるものはそれまでの生活とは異なるものだというのに、普通に今までどおり暮らしてる自分が随分不誠実で無神経なんじゃないだろうかという気すらした。


…これ以上、考えまわしても健康的な判断はできない。


身体を休めれば矛盾も事態もすべて解決されようはずがないとは知りながら。
それでも意味もなく身体を起こし、自虐的な方向に自分自身を持っていくような真似を繰り返していられるほどの猶予は残されてないのだから。


心を置き去りにして進んでいく日常。
その日常の先に竜樹さんの再手術が待ち構えてる。


…矛盾もそれに纏わる痛みも抱えながら歩くしかないんだね?


誰にというわけでなくそう問いかけるような気持ちで、そっと休んだ。

Over and Over

2002年8月19日
暫く湯船でじっとしたまま目の赤みが引くのを待ち、お風呂からあがる。
着替えて竜樹さんの眠る部屋に戻る。
袋に入れてまわった荷物を一箇所に集め、今度は自分の帰る用意を始める。


竜樹さんは鎮痛剤が効いているのか、よく眠っておられる。
明日から会社なので、なるべく早く竜樹邸を出なければならない。
あまり遅くなりすぎるとバスがなくなるので、竜樹さんに声を掛けて竜樹邸をあとにしようとすると、

「タクシー乗って帰り?明日からまた大変やねんから」

そう言われたので暫く竜樹さんとお話したり、竜樹邸に来られた竜樹さんのご両親と少しお話をする。

…たいそうなこともしてないのに、沢山お土産を貰ってしまった(-_-;


竜樹さんと離れるのが忍びないなぁとは思ったけれど、これ以上いたところで私に何ができる訳でもない。
また泣きそうになったので、タクシー会社に電話してタクシーを手配。
暫くするとタクシーがやってきたので、竜樹邸を出る。

「ありがとうな。気をつけて帰ってな」
「竜樹さんもお疲れ出ませんように。明日から大変だけど、頑張ろうね」


そう残してタクシーに乗り込む。


タクシーの中でも終始無言。
時折、金岡邸までの帰るルートを運転手さんと話す以外はずっと俯いたり、車窓を流れる景色を眺めていた。


家に帰り着くと、お江戸から金岡母が戻ってきてたので江戸話を聞き、空笑いしてた。
本当ならこの場で、竜樹さんの入院の話をするべきだったかもしれないけれど、金岡父にしても金岡母にしても娯楽で過ごした盆休みではなかったから切り出す気になれず、自室に戻る。


部屋に戻って一人になると、涙は止まらなかった。

泊まりに行っても、結局は何の役にも立たなかったこと。
多分それはこの先も延々続いていくこと。
3年前には感じなかった感情はどんどん身体の中から食い破って出てくる。


…時間が経って培われたのは、無力な自分だけやったんや。


眠っても眠らなくても同じこと。
ならば、せめて会社ではまともでいられるように眠るべきだったのだろうけれど、意識が落ちることはなかった。
明け方無理やり眠って、また起き上がる。


…無力な自分であっても、今の自分の持ってるものでしか戦えはしないんだ。
だったら、嘆くよりも他にすることあるだろ?


他に出来るだろうことですら、自分の持ち合わせてる力の上限一杯まで出さなきゃ出来ないことだと知りながら。
常に上限一杯で動けるものでないことも知りながら。


それでも挑むしかないのだと思いながら、ひとまず会社へ行く用意をする。


正直、こんな精神状態で人外魔境のような場所に行きたくはない。
けれど、その普通すら維持できないなら、これから先へは進めない。


重い身体を無理やり動かして、家を出た。


鈍色の雲と、青空が同居してるヘンな天気
空気は湿気ているけれど、風があるだけマシ気がする。


…竜樹さん、昨日はちゃんと眠れたのかな?

竜樹さんでないと判らない荷物や書くことのできない書類。
それらの処理に終われて眠れなかったんじゃないだろうか心配。
けれど、病院に着けば不調をきたしてもすぐに病院の人たちが対処してくれるだろう。
その意味では、竜樹邸に留まっているよりかは安心な気もする。


ただ何となく気持ちを届けたくて、ただ元気でいてくれることを祈りながらメールを飛ばす。


「行ってらっしゃい。
何かあれば行くから、いつでも言ってね。
元気になるために、一緒にがんばろね♪」


…そう思い込んだり、見た目通り一遍な言葉を送ることが気休めでしかなかったとしても、そう思わなければ自分を動かすことなんて出来ない。


そう思いながら、行きたくもない会社を目指した。


休みボケした身体を動かすのは一苦労。
なかなか仕事モードに切り替わらない自分にイライラもしたけれど、それは周りも同じだったようで、予想してたよりもはるかに業務は楽だった。

ボスや社長は休みがよほど退屈だったのか、朝から賑やか。
何かと飛んでくるお話に答えながら仕事をするだけのゆとりと、余計なことを考えずに済むだけの受け答えの機会を与えてもらえたことには感謝しないといけないのかもしれない。

そう思いながら仕事を進め、会社を出た。


今日は朝も昼も夕方も誰かしらが携帯にメールをくれていた。
どうしたら元気な返事を返せるだろうと思いながら、けれどただ「ありがとう」という気持ちだけを届けたくて、シンプルに、ところどころ脱線モードな言葉を交えながら返事をし続けた。


自宅に帰ってから、なるべく早く夕飯を食べて片付けて、自室で竜樹さんからの電話を待ち続けたけれど、かかってはこなかった。


…きっと、準備の残りと書類関係の処理に追われたんだろうなぁ


昨日も絶不調だったんだ。
きっと今頃ゆっくり休んでいるんだろう。
無理して連絡をくれるよりかは、ちゃんと休んでくれてる方がいい。


…それでも、声が聞けたらいいなぁと思ってはいたんだけど(-_-;


道は続いている。
それが更なる絶望を呼ぶ明日に続いているのか、それとも絶望の素に引導を渡せる明日に続いているのか。
それは判らないけれど。


決意がが固まろうが固まるまいが。
気力がついてこうがついてかまいが。
道はどこまでも続いている。


「こけたら何度でも立ち上がればいい」


そんな言葉を曇りなく言えるほどに、迷いなくいられてる訳ではないけれど。
良くなる方向の明日へ続く道を選び取れるように。
転んでも何度でも立ち上がれる自分を作り上げながら、来る日を目指してただ歩こうと思う。


竜樹さんと一緒に歩こうと思う。
台所からカセットコンロとたこ焼きセットなるものを取ってきて、その中に入ってるちっさな鉄板をコンロの上に置く。
油慣らしをしないといけないらしく、鉄板を熱しては油を捨て、冷ましてを何度か繰り返す。
そして、たこ焼きの生地の堅さを2人で調節しながら、焼き始める。


…しかし、これが難しいんだ(-_-;)


鉄板がちっさいので、ひっくり返す時ヘンな力がかかると、がこんと音を立てて斜めに鉄板が落っこちる。
おまけに火の当たりにムラができるので、真ん中一列しか上手に焼けない。

慣れないので、なかなか上手にひっくり返せない私。
どういう訳か、竜樹さんの方が上手にひっくり返している。


「確かにこの鉄板でひっくり返すん難しいけど、霄がひっくり返すと大きさが2分の1になるなぁ( ̄ー+ ̄)」


……………ヽ(Д´ )ノヽ( `Д)ノ


散々馬鹿にされながら焼きつづける。
そのやり取りは確かに楽しげなんだけれど、労力の割におなかは一杯にならない。
一通り用意した生地もなくなり、「ご飯が食べたいなぁ」と竜樹さん。


冷蔵庫の中にある牛肉とピーマン、パプリカ、玉ねぎを切って炒め、オイスターソースとナンプラーで簡単に味付けしたものを作る。

ふと備蓄のご飯が切れてることに気がつき、自転車を飛ばしコンビニまでパックご飯を買いに行く。
ついでに次の日の朝ご飯とお茶のペットを仕入れて、また自転車を飛ばす。


…やっぱり、炊飯器は買った方がいいよなぁ(-_-;)


大概夜遅いのに、未だに蒸し暑さの抜けない空気の中をひとり自転車をかっ飛ばして竜樹邸に戻る。

それから、遅すぎる夕飯を取る。

「霄ぁ、たこ焼きの前にこれ食べたかったわ。すごい美味しいやん?これ(*^-^*)」


たこ焼きをメインにせず、あくまで遊びの一環として扱うべきだったかなと反省しきり。
それから後片付けをして、ざっと汗を流して、寝る準備をする。


竜樹さんがお風呂に入ってる間、何気なくテレビをつけると、エリザベス女王戴冠50周年記念のライブの映像が飛び込んでくる。
女王のクイーンとイギリスのロックバンドクイーンとを引っ掛けて、いろんなミュージシャンが出てくるのを見てきゃっきゃ言ってると、竜樹さんが戻ってくる。

少し涼んでパジャマに着替えて、壁にもたれかかるように座る竜樹さんの方に近寄っていって、最近定例の膝枕をしてもらう。

「ホンマに霄にはまいったわ。
体調が悪い時にたこ焼き焼く羽目になるとは思わへんかったで」

「…やめといたのが、よかったですか?(-_-;)」

「いや、霄の焼く2分の1たこ焼きも見れたし、面白かった。
もう少し元気な時にやればもっと楽しかったやろうけどなぁ」


何か楽しみごとをと思ってしたことだったけれど、具合の悪い竜樹さんには悪いことをしたのかもしれない。

まだ背中が痛むと言うので、湿布を貼るお手伝いをすると、「お礼に」と言って、背中をマッサージしてくれた。
そうして横になってくっついて、少し具合がマシになったのか、またじゃれあって。
そうして何時の間にか、眠っていた。


次に目が覚めると、少し遅めの朝だった。
珍しく竜樹さんの方が遅くまで寝ているので、意識がはっきりするまでぼーっとして、ご飯を作り始める。

昨日買ったパンと、目玉焼き。そして簡単なサラダ。

出来上がった頃に竜樹さんを起こすけれど、なかなか起きられず。
竜樹さんが起きるのを待っていると、竜樹お母さんが来られ、差し入れにとサンドイッチとおにぎり、お惣菜数種類を頂く。


暫くして竜樹さんが起きたので、一緒にご飯を食べた。

食事の後、いつもよりもうんと具合が悪くなったらしく、薬を飲んでまた暫くお休み伊になる。
明日から入院だというのに、何の準備も出来てないのは不安なので、病院から貰った持ち物リストを眺めて所在の判るものから取ってきては紙袋に入れていく。

着るもの等、本人でないと判らない物の方が準備を怠ると大変なことになるとは判っていても、たたき起こすのは何だかかわいそうな気がして。
一人で簡単な準備を済ませた。


「……霄ぁ、どうしてるん?」
「簡単な用意をしてたんですよ」

起きられてなお、まだ具合が悪そう。
お風呂に入ると少しマシになるという経験則に基づいて、掃除してお風呂を沸かす。

今日はもう夕飯を作らなくてもいいということなので、お言葉に甘えて竜樹お母さんが差し入れしてくださったものの残りを口にしながら、片づけをする。


お風呂が沸いたので竜樹さんを起こし、お風呂に入れる。
その間、お魚に餌をあげたり、片付けの続きをしていた。

竜樹さんがお風呂から上がってこられる頃には、私が帰る準備をすればいいだけになった。
いつものように涼んで着替えた後、壁にもたれて座る竜樹さんの傍にぺたんと座る。

「お風呂入っても何だか今日は調子よぉなれへんわ」

苦笑い気味の表情の竜樹さん。
どう答えたらいいか判らずに考えていると、いつものように頬をなでたり髪をなでたりする。


そして、ぽつりと溢す。


「俺、またあの手術受けんなんの、嫌やぁ。
下手したら、今度は身体のどっかが動かなくなるかも知れへんねんで。
もしかしたら、生きてられへんかも知れへんねんで」


…本当はやっぱり怖いんだ。


「どう転んだって、今以上に悪くはならない」というのは、私に対して安心を与えるためのものでもあっただろうけど、それ以上に自分自身の不安を払拭したかったんだ。


怖くないはずないじゃないか。
あの手術の規模と術後の痛みがどれほどのものだったか、執刀を受けたものでなくても少し考えればわかったこと。
いくらあの先生の腕がいいったって「絶対」なんて存在しないこと。


手術が全ての絶望の元を断つ訳じゃない。


それは私以上に竜樹さんのが良く知ってる。


…何やってたんだろう?


自分のお気楽さ加減に泣けてきた。
けれど、そんな涙をここで落とすわけにもいかず、下を向いて竜樹さんに触れられるままじっとしていた。

「…俺、ちょっと横になるなぁ。汗を流してから帰るんやったら、お湯の温度はちょうどええと思うし、使い?」


竜樹さんに勧められるままお風呂場に行く。

湯船に入って一人になって、声を殺して泣いた。


どんなことしたって、逃れることなんてできやしないんだ。
生命に差し掛かる影からは。
そして大切な人の生命に差し掛かる影が齎す不安や恐怖を傍は掃うことすら出来ず、ただ見てるしか出来ないんだ。


…結局、傍は何の役にも立たないんだよ。


楽しかったかもしれなかった時間ですら、生命にさしかかる影には勝てない。


…どんなことをしたって、掃えはしないんだ。


そんな無力感に苛まれながら、目の赤みが引くのを待ちつづけた。

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