昨晩自宅に帰ってから、昨日もめた件について一通り自分の中で整理して、その後どう対処すべきか考えた。

取り敢えず急を要することについては、率先して(?)解決する方向で動き出す用意をしよう。
それでもまだ治まらないと仰るなら、もう降りよう。

頭の中で気持ち悪いくらい、理路整然と考えは纏まっていた。
腹も括れてしまっている。
それが正しいかどうかはまともに眠ってもいない、祖母の件から心が完全に生活にシフトしきれてない状態ではわからない。

ひとまずお風呂に入って、無理やり休むことにした。


何度も何度も浅い眠りを繰り返し、ようやくちゃんとした眠りの域に入りかけた頃、携帯が鳴る。

受話器の向こうの竜樹さんは、体調の悪い時のそれとは違った不機嫌そうな声。

今回はちゃんと抑え抑え話をしようと思って、ずっと彼の話を聞いていたけれど。


…正直、何のためにわざわざこんな時間に電話してきたんだろうって思った。


「そこまで言うのかよ?」という言葉も食らった。
彼の言葉にかちんと来ることはそう珍しいことでもないけれど、「あんたがそれを言うん?へぇ?」ってくらいに冷めた気持ちになることは極めて稀。

というより、こんな感覚は初めて。


会話として成立してるかどうかも怪しい電話が終わって時計を見ると、5時。


寝直したら、身体には堪える。
でも置き続けても身体には堪える。


横になって出勤準備をする時間を待ち続け、時間がきて身体を起こしてびっくりした。

吐き気がひどくてまともに立てない。
頭痛と胃痛の併発程度なら無理やりにでも出勤するけれど、胃液ごと吐きそうで吐けない状態。
吐き気を抑えるために飲んだ薬が逆効果でもどしてしまい、力が抜けてく感じがする。

会社に電話して、半休を貰った。


…いい加減クビになるかもなぁ


祖母が亡くなり、竜樹さんともめて関係が破綻した上に会社もクビになったら、泣きはしないけど笑えもしない。
ひとまず昼からはちゃんと仕事が片付けられるように横になって休み、ようやく身体が落ち着きを取り戻してきた頃に用意をして家を出た。


通勤鞄以外に竜樹さんに返すものと渡すものを持っているから、ふらつき気味な身体には堪えるけれど、何としても今日片付けてしまいたかった。

ひとつに纏めて宅急便で送りつけてもよかったかもしれない。
その方が楽は楽だ。
顔を合わせて傷つけあう作業に及べばそれは不毛な結果しか齎さない。
煩わしいことを好まない私にはちょうどいいだろう。


けれど、この件が元でごきげんような結果になっても、最後くらいは顔見て話しておかなきゃならないだろう。
会うことの目的が、この関係を維持するためではないというのが今までとは大きく違うことだろうけど…


時間が経てば怒りは静まるだろうけど、今回のことは多分一生忘れない。
いつもは彼の気持ちを維持することを最優先に考えるけれど、危機の度に竜樹さんを宥めたり(傍から見ると)すがってるように見える真似をする気力が起こらない。
正直いろんなことで疲れ切ってしまってるから、今日で最後になるかもしれない。


維持してきた関係や想いを失うことに痛みも悲しみもない訳じゃないけれど、どんな洗濯をするにしても、今後の自分に不幸が及ばなければそれでいい。


「竜樹さんに不幸が及ばないようにするにはどうしたらいいんだろう?」って考えてた自分はどこに行ったのだろうかと考えはするけれど、どんな道を選んでも私は私でしかないから。


ふっと、物事が終わる時は意外とあっさりしたもんなのかもなぁって思った。
ごちゃごちゃ考えたって、今日のことも明日のことも判りやしないんだ。
きっとそんなもんなんだろう。


食事をとらずに社屋に入り、もくもくもくと机の上に鎮座してる仕事の山を捌かしていく。
定時がきて少しだけ仕事が残っていたけれど、明日の朝一番でも大丈夫な仕事なので敢えて取り組まず事務所を後にした。

自転車をとばして駅に着いて、意を決して竜樹さんに電話する。
朝方の電話とは違う穏かな声に少々面食らったけれど、終始敬語で話して電話を切る。
ホームに滑り込んできた電車に乗り、竜樹邸を目指す。


会社帰りに竜樹邸に寄るということは、日常生活の中でそう珍しいことでない。
しんどくても家でしなきゃならないことが残っていても、竜樹さんに会えるということ自体がとても嬉しかった。
竜樹さんの体調が悪くても、傍にいられたらそれでよかった。


でも同じ気持ちでここを訪れることももうないかもしれない。


ぼんやりとそんなことを考えてるうちに、竜樹邸に着いてしまった。
会わなくなるなら返さなきゃならない竜樹邸の鍵をキーホルダーから外して、竜樹邸の鍵を開けようとしたら鍵は開いていた。


「こんばんは」
「あぁ、来たんか。悪いけど、2階に来てくれるか?」


本当は玄関先で必要なものを一式渡してそのまま家に帰るつもりだったのに、竜樹邸にあがる羽目になってしまった。
2階にあがると、竜樹さんは椅子に腰掛けて本を読んでおられた。
コートも脱がず、持ってきたものを一通り説明して中身を確認してもらう。


その作業も済んだので帰ろうとすると、「コーヒー1杯くらい飲んで帰り?」

「いえ、すぐに失礼しますから」と答える私の目の前にマグカップになみなみと注がれたコーヒーが出てきた。
コートを着たまませっせと飲んでいると、「コート脱いでゆっくり飲んで帰ったらええやん」と竜樹さん。
あまり愛想のないのもどうかと思ったから、いつもと同じペースでコーヒーを飲んだ。

会話といえば、竜樹さんが話し掛けてこられることに私が敬語で返すの繰り返し。
言葉が及びすぎることで大喧嘩になるのを避けようとした結果なのだけど…


コーヒーも飲みきったので、今度こそ帰ろうと立ち上がると、今度は「雑炊1杯でも食べて帰り?」

竜樹さんに言われるまま1階に降りると、先に降りた竜樹さんは鍋の中の雑炊を温めている。
「いつものことで芸がないけど…」とふたつの丼鉢に雑炊を入れ、海苔を散らしてスプーンと一緒に差し出される。

お礼を言ってそれを受け取り黙々と食べ出すと、「こっち来て食べ?」


リビングに入ると、椅子を二つセットされている。
それも二つの椅子が向き合うようにとても近いところに。
それは2階にいる時も同じだった。
終始竜樹さんから遠い場所に座る私を、竜樹さんが近くになるように椅子をセットして「おいで」という。
いつもならそれを嬉しいと思うのだけど、今は少し戸惑ってる。


…私自身は連日のやりとりの内容から、別れ話は出るとふんでいたから


結局、雑炊を食べ終わった後も竜樹さんの話し掛けに答える形になってしまって、気がついたらすぐ帰るつもりが予定よりも1時間半ほど長くいてしまった。


結局、予想してた別れ話は出ず、だけど今後の約束は何一つしないまま、竜樹邸を後にした。


私は傍が思うよりもうんと気短だし、白黒ははっきりさせたい性分だけど。
結論を急ぐ様相のない時にまで、無理やり結論を出す必要はないのかもしれない。


…どこかすっきりしない部分はあるのだけど


いつものように竜樹さんは心身共にリミッターが振り切れた結果、鋭い口調になったんだろうとは思うけれど、私自身の想いの果ては見えた気がした。

そういう意味では、今までとは違う意味で危機はまだ去った訳ではない。
やりあう相手は他ならぬ自分自身だから、もっと厄介。


…けれど、確かなのは。
冷えた気持ちで竜樹邸に出向いて、彼の笑顔で心が少しでも暖かくなる自分はまだ死んではいない。

それだけは確か。


いつか2人の歩みが終わる日がきても、もしかしたらそれだけは変わらないのかもしれない。

小さいけれどまだ死んではいない暖かさはまだ私の中に残っていたのだということだけは、確かだった。


心がどれだけ漣立っても…



心の位置取りすら…

2002年11月26日
火葬場から本邸に戻り、本当はこのあと初七日の行事と食事の席が控えていたのだけど。
私は先に自宅に戻ることになっていたので、帰り支度を始める。
その後の行事に残る親戚の人々に個別にお礼を告げて玄関で靴を履いていると、私が返ることを知らなかった本家の伯父が声をかける。

「なんや、帰るんかいな。食事もあるのに…」
「いえ、どうしても戻らないといけないらしいので…」

ちょっとした話になったのだけど、「食事はまたの機会に」ということで、本邸を後にする。


…多分、私がここを訪れることはもうないだろうけれど。


外は未だに雨降りやまず。
うっかりコートを持って出るのを忘れた私の身体に寒さがこたえる。
足早に家路を急ぐ。
電車を何回か乗り継いだところで、メールをひとつ。


「滞りなく終わりました。
告別式の時は挨拶が忙しくて、泣く余裕なし。
お別れの時涙は出かかったけど、お花を配る手伝いして余裕なし。
火葬されて、骨壺に骨を入れる時、やっと涙が出そうになりました。

今、みんなより先に帰宅途中です。
独りになったら、ちゃんと泣けるかも知れません。
暖かい言葉をありがとうね。
嬉しかったよ。

そら」


車内の暖かさに身体の中から緊張が取れたのか、少しばかりうつらうつらしかかったけれど。
意識が落ちそうになるたびにドアが開き、冷気がひゅーっと入ってくる。
帰宅までの最短ルートを模索しながら、移動を繰り返した。
次の乗換えを控えてる時に、携帯が揺れる。


「お疲れ様でした。お祖母さんも孫の活躍に安堵されていると思います。
人生は喜怒哀楽の繰り返し、終焉を迎えたとき、ご苦労様でしたと言ってくれる人がいたら、生きたことの証ではないでしょうか。
人生は喜怒哀楽、悲しいあとは楽しく振る舞うことが、故人に対しての感謝の意を表わせるのではないでしょうか。
なぜなら、子孫の楽しい姿を見て気を悪くする祖先はいないから・・・」


竜樹さんの言葉が心の中で穏かに溶け出していく。
まだ出先だったから、さすがに泣きはしなかったけれど…
冷たい雨が降り注ぐ街を眺めながら、自宅へ戻った。


連日人が殆どいなかった金岡邸でプードルさんはぐったり気味。
プードルさんは全員が留守にしてると休むことなく起き続けているので、誰かひとりでも戻ってくると安心して休めるらしい。
台所で夕飯の支度をしたり、眠るプードルさんの傍にいて文章を纏めたりしながら金岡両親の帰宅を待った。


金岡両親が戻ってきて用意したご飯を出そうとしたら、本家から沢山お土産を持たされたらしい。
本家土産を食べ、お風呂に入って休むことにした。


何となく眠れず布団の中でぼんやりしていると、携帯にメールが届く。
海衣からのメールだった。

労いの言葉と海衣が通夜に参列して思ったことが綴られていた。

通夜の席で姪御ちゃんが動き回ってはともすると悲しくなりがちな場を何とか繋いでくれたということ。
その様をみた分家筋の伯母が「初めて会った気がしない」と言ってたこと。
それを聞いた海衣は伯母がかつての私の姿に姪御を重ねてみたんじゃないかと思ったこと。
「あぁ、お姉ちゃんはこんな感じだったのね」と喜んでる言葉で結ばれていた。


すぐさまメールを打ち返した。

遠方より駆けつけてくれたことへの労いと自分自身が今回の告別式で感じたこと。
姪御ちゃんが愛される子に育ったのは本人の素養と努力もあるだろうけど、海衣や旦那さんが頑張ったからなんだよと。


またお返事が届く。

棺の中の最後に会った祖母のイメージとあまりにかけ離れた感じがしたこと。
彼女がちゃんと介護してくれた人と本家の伯母にきちんとお礼が言えたこと。
今まで労いの言葉すらかけられることのなかった人にちゃんと伝えられたことがよかったのだと。


そんなやり取りを互いに幾度となく繰り返し、思う。
海衣と私との間には微妙に軋轢があって、姉妹でありながらかなり慎重に言葉を選んで話し続けてるところがあったけれど。
それが永続性のないものであったとしても、一瞬でも互いが感じたことを素直に語り合える時間を持つことが出来ること。
それもまた祖母が齎してくれた贈り物なんじゃないかって気がする。
やっと気持ちが少し落ち着いて寝入りかけた頃、携帯が鳴る。

竜樹さんからだった。

彼には今度の件ではいろんな意味で助けて貰ったから、きちんとお礼を言いたかったけれど夜遅かったから手控えてしまった。
どうかしたのかな?と思いながら、話を聞いていると俄かに雲行きは怪しくなってきた。

今度の件とはまったく違う問題で、派手にけんかする羽目になった。
いつものように、ある程度のことは聞き流せばよかったのだと思う。
竜樹さんが自ら電話してくる時は精神的に相当まいるようなことがあったからだってことは、ちょっと考えたら判ることだから。


それでも、今夜言われたくないことだった。
たとえそれが急を要する話であったとしても、今夜は聞きたくなかった。


心の中に今まで一度たりとも感じたことのない冷たいものが流れた。
「理解して欲しい」とか「理解してもらうために努力しよう」とかいうのとは、まったく違う感情。


涙も出ないまま、疲れが累積するのを身体で感じながら、冷えた心を眺めながら朝を迎えた。


ボタンの掛け違えやタイミングの悪さは、互いが互いの意志を詰めようとしたらその大多数は解決できるもの。
だけど、ボタンの掛け違えやタイミングの悪さもまた、間違いなく物事を終わらせる理由になりえるもの。


…これが大きな崩落のきっかけになるかもしれないね


それでも、今までのように胸を締め上げるような悲しさは不思議となかった。
竜樹さんと歩けなくなることを何よりも恐れているはずの私の中に、「終わってもすべてが悪くなるわけじゃない」と冷静に眺めている自分は間違いなくいる。


劫火で焼き尽くしたのはいろんなものに対する後悔の念ではなく、それまでの想いを守ろうとする自分自身だったのかもしれない。


…私を取り巻くものがどうあれ、1日は始まるし終わってくんだよ


どことなく投げやりな気持ちのままで会社に向かう。
ボスに昨日のことを報告し、忌引を取らせてもらったお礼を言ってから仕事を始める。
あまりに仕事が多すぎて、昼休みになっても仕事のキリがつかない。
祖母の葬儀の絡みでバタバタしすぎてお弁当を作り損ねてしまった。

外へ食料を買いに出るのも煩わしくて、机の引き出しにある備蓄のお菓子をかじりながら昼休みはすべて仕事に費やした。


結局、1日中大量にあるわけのわからない仕事と格闘して終わってしまった。


定例の朝メールの返事が携帯に届いているのを読み返して、そっと気を吐く。
傍からはすぐに結論を出したがってるように見えるらしい。
そんなに結論急がなくてもいんじゃない?と励ましてくれる人もいるけれど。
相手が私の言葉で気分を害したのと同じように、私も彼の言葉には相当気分を害したから。
いつもは一旦折れて時間を置いてから話を詰めるだけの余裕みたいなものがあったのだけど、今回は折れる気がしない。

その感情の流れ方が既にいつもとは全然違うのだけど…


「冷却期間を置いて考えてから結論出すわぁさぁヾ(*^-^*)」とコメント返しておいたけれど、そうすることが正しいかどうか本人的に疑問。


いろんな出来事が起こるタイミングが自分自身の位置取りを変えていく。
心の位置取りすら変えていくのかもしれない…


Last regrets

2002年11月25日

告別式の朝が来た。

昨日は転寝するようにいつのまにか眠ってしまっていて、携帯のアラームが鳴るまでの間に何度も目を覚ましながら迎えた。

頭痛も体調不良も残ったままだけど、重い身体を起こして用意をして出かける。


外は鈍色の空から雨が降り注いでいる。
まるで葬儀の席で泣くことを許されないものの代わりの涙のよう。
あの場所で泣くことを許されているのは、祖母の傍できちんと面倒を見た人だけ。
どんな事情があろうとも、その場にいてなかった私には泣く資格はないのだから。


…泣かずに祖母を見送ることが私が出来る最後のこと。


そんな風に思いながら、車窓を流れる雨に滲む景色を眺めていた。

連休明けの道路は国道も高速も渋滞気味。
もしかしたら、予定よりも本家の到着は遅れるかもしれない。
それだけはあってはならないことだから、ただ時間通りに到着することを願いながら、友達に簡単な報告メールを打っては飛ばした。


そうすることで、冷静な自分を取り戻したかったから。


高速を降りる手前で会社に電話を入れ、直接ボスに祖母が亡くなったことを伝えた。
ボスは昨夜のメールを確認してなかったらしく、ちょっと驚いておいでだったけれど課長が簡単に事情は説明してくれてたみたいなので、急な忌引きも取らせてもらえた。

あとは時間通り本家に辿り付くのを願うだけ。
そして、本家に着いたら一切涙は見せないだけの覚悟を決めなければならない。

何となく竜樹さんにメールを飛ばす。
冷たい雨の降る日だから返事が届くとも思わなかったし、返事が欲しかった訳でもなかった。

…ただ、竜樹さんにひとこと伝える作業が私の中に小さな覚悟の種を蒔くのと同じ作用があるんじゃないかって気がしたから。


「おはようございます。告別式に向かうべく、移動中です。
この雨は式で泣けない私たの涙の代わりなのでしょう。
笑顔ではアカンけど、気持ちよく祖母を送り出してきます。
頑張ります」


鈍色の空に小さな決意の種を放ち、祖母と本家という、自分の中で相反する感情が流れる場所を目指す。


集合時間の15分ほど前には金岡本家近くの駐車場にはたどり着いていた。
携帯に着信音が続いたのでメールを見る。


「霄が心配だけど、別れが来てしまったお祖母さんの涙とも取れるし、お祖母さんの介抱をしてきた人たちの悲しみの涙かもしれません。
霄は感情の赴くまま、泣きたければ涙を流すべきです。
この場で涙を堪える必要はありません。
心の感じるまま、逆らわすに、お祖母さんの魂を送り出してあげるべきです。
無力な生けしものの最後の務めです。
しっかりと、けど、心に素直に。(^^)/」


「私たちには泣く権利がない」というのは、金岡母とも海衣とも共通した意見だったのだけど、泣くことを許してくれる人がいるんだということがありがたかった。
降り注ぐ鈍色の雨と共に涙を零してしまいそうになったけれど。

泣くのは心の中だけでいい。
それは最初に決めたことだから。


竜樹さんがくれた言葉を大切に心にしまい込んで、本家を目指して歩き始める。


…ここへ来るのは何年ぶりだろう?


いろんな事情があって、祖母が元気だった頃とどことなく様相が変わってしまった金岡本邸に対する抵抗感みたいなものは未だ身体からも意識からも抜け落ちることはないけれど、今日だけはそれに負けるわけに行かなかった。
どこか背中を向けたくなるような感情を追い払うようにして、本邸に入る。


「あら、霄ちゃん、えらく顔がちっさくなったわねぇ」


本家の伯母が人のことを頭からつま先までじーっと見やって感心したような声をあげる。
「昔は一体どんなでかい顔してたってのよ?」と心の底で毒づく自分がいたけれど、その声に分家筋の伯母も他の親戚も素で同調してこられたので、にへっと笑っておいた。

何となく誰かの会話の種になるのが嫌で、自分から告別式絡みの作業を探して手伝い始める。
ちょうど、金岡父が電報に振り仮名を打つ作業をしてたので、届いた電報を纏めたり読む順番に並び替えたりして黙々と手伝っていた。

途中、「忌引が取れそうだったけれど、今からだと式には間に合わないから後のことはお願いします」と海衣からメールが入ったので、海衣の旦那さんのお父さんからの弔電が届いていること、後のことは大丈夫だからというメールをこそっと飛ばした。


手伝いに追われる中で、本家の従姉妹の一人と何度も視線があったのだけれど、正直何を話していいのか私には判らなかった。
何か言いたげな表情からさりげなく言葉を引き出すのは、正直あまり得意な方じゃない。
彼女と言葉を交わすことなく、弔問に来られた方に挨拶したり、他の準備の手伝いをして告別式の時間を迎える。


告別式が始まると、感傷に浸る余裕などありはしなくて。
途切れなく弔問に訪れる人に挨拶をするのに精一杯だった。
子供の頃なら足が痺れただのお腹が空いただの言ってただろうことを感じる余裕すらない。

祖母のために集まってくれた人たちに、それがどんな感情からやってくるものであれ。
ただ感謝の気持ちが少しでも伝わればと思うことで精一杯だった。


読経が終わり、暫くするとお別れのために棺に花を入れていく。
葬儀社の人が花を配らないとならないのに、どういう訳か花を配る手伝いをしていた。
遠慮がちにしてる人を見つけると、お花を持って行って「お別れしてやってもらえませんか?」という私は本当に遺族側の人間として見られてたかどうかすらも怪しいものだけれど。

人に花を配るのに一生懸命になってると、分家筋の伯父がお花をいくつも渡してくれる。


「霄ちゃんがお花を入れなきゃ、ダメじゃない?」


ちいさな優しさが、嬉しかった。

棺の中に眠る小さくなった祖母にお花を託して、ただ祈る。
「贈り物はすべて受け取りました」と心の中でそっと呟き、涙を見せないようにして別れた。


これで本当にお別れなのだと思っていたら、本家の伯母に呼ばれる。
祖父の時には連れて行ってもらえなかった火葬場へ、私も連れて行ってもらえるということだった。

祖母の妹さんとその親戚の人と同じ車で火葬場へ向かった。
その車中ではずっと祖母の話をしていた。
祖母の妹さんが泣くのを見て張り詰めていた糸が切れそうになったけれど、それもまた飲み込んだ。


…まだ最後の仕事が残っているから


雨で滲む赤い紅葉が彩る山を登る車。
車を降りて、本当に最後のお別れ。
重い扉の向こうに祖母を送り出すのにまだ抵抗はあったけれど、それを表に出すことはもう許されはしないのだから。
ただ祖母の妹さんが泣くのをそっと支えながら、重い扉の向こうに祖母を送り出した。

長い長い待ち時間。

その間、何度も本家の従姉妹の何か言いたげな視線が何度となくぶつかったけれど。
やっぱり言葉を交わすことは出来なかった。
心突き刺すような何かが身体中にまとわりつくような感じを払いながら、お茶を配ったり片付けたりしてただ待ち続ける。


一体どれくらい待ったのだろう?

次に呼ばれて向かった先には真っ白な姿になった祖母がいた。


胸を突き刺すような感覚は体中を締め上げる感じがする。


お骨を拾っては骨壷に入れ、箸を次の人に託してはまた巡ってくる。
やっぱりこの場でその作業を率先してしてはならない立場なんじゃないだろうかと考える自分がいる。


なのに、分家筋の伯父は何度も何度も私に箸を託してくれる。
その優しさがまたありがたく切なかった。


すべてが終わり、本当はお願いしたいことがあったのだけど。
それはいろんな絡みがあるので、口を閉ざした。
祖母は天に還り、自分には安堵と悲しみが還る。
燃え立つような紅葉を見ながら、ふと思う。


本当は彼女が生きてるうちに伝えたかったことは沢山あった。
次に本家に帰るときは大切な誰かを連れて行くつもりだった。
その時はそう遠くはなかったはずだった。

でも出来なかった。

私に出来たのは、涙で送らないということだけ。


この後悔は劫火では焼き尽くせはしない。
ただその身に抱えて歩くしかないのだろう。
次に出逢うその日まで…


最後の贈り物

2002年11月24日
ばたばたとした1日が終わり、浅い眠りを繰り返しながら朝を迎えた。

今日はお通夜の日。
海衣が今日通夜に出るためお江戸から戻り、いろんな事情からここに留まり私は明日の告別式に参列するということになる。
私は喪服を持っていなかったので、これから不足してるものを買い足すために出かける金岡母と共に出かける。

坂道を降りながら、金岡母といろんな話をする。
祖母の死に目には誰も会えなかったこと。
祖母が亡くなるまでの間、本家サイドでどんなことがあったのか。
昨日本家でみんなが集合した時の話をしながら、移動を繰り返す。


週末の午前中はどこもかしこも人でいっぱい。
相変わらず人ごみには弱いけれど、今日は時間がおしているのでつまらないことでもたもたしてもいられない。
瑣末なことがいろいろと心にひっかかるけれど、一切無視して目的地に向かう。


喪服。
この年齢まで持っていなかったということが不思議でならない。
それほどまでに私の外側の世界では生き死ににかけて無縁の生活だったということの証なのだろう。
竜樹さんという、一生共に歩こうと思った人がその境界線を歩いていて、自分にとっては生き死にというのはすぐそこにあるものだと思っていたけれど。
ぼんやりと吊るされてる喪服を見つめ、そのひとつを手にとって試着させてもらい、部分直してもらうことにした。

待ち時間の間、金岡母が今日持っていくもので足りないものを買い足すののお手伝い。
金岡父が出かける時間に間に合わなくなるからということで一旦金岡母と別れ、私はそのまま百貨店に残って、すっかり切らしてしまってた化粧品を買いに行くことにした。


…化粧品って、どうして買うのにこれほどまでに時間がかかるんだろう?


化粧品を買うという行為自体は割と好きな方だけれど。
時間がかかるのがどうも好きではない。
ただこのところストレスで肌の調子が悪かったから、いろいろな話を聞けたのはよかったのかもしれない。
化粧品のコーナーを出る頃には、喪服の部分直しは終わっていた。


試着して確認して、喪服を受け取り家路を急ぐ。
昨日姉さまからメールが来てたのに放りっぱなしにしてたから、ひとまず現状の報告メールをひとつ。
その後、竜樹さんにも報告のメールをひとつ。
なるべくしけっぽくならないように気を遣いながら言葉に置き換え、そっと飛ばす。

昨日もちゃんと休めてなかったからか、どこか疲れが残っていてそれが頭痛を誘発する。
重たい荷物と痛む頭を抱えながら、移動を繰り返す。

ようやっと最後の移動になった時、竜樹さんからメールが返る。


「喪服はシンプルで、高くても生地のいいのが長く着れるよ。
どんなのを選んだのかな?」


いろんなアドバイスの結びは、どこかやさしい言葉だった。
それに応えたくて、すぐにメールをこちこち…
うまく表現できたかどうかは判らないけれど、喪服の説明メールをそっと飛ばす。


自宅に帰り着き、箱に入った喪服を出して吊るしてると、携帯にメールがひとつ。

思わず笑いたくなるような、メールが届いた。
随分気を遣わせてしまって申し訳ないなぁと思いながら、その心遣いが嬉しかった。
そっと携帯を身に付け、お通夜のために出かける金岡母の手伝いをして送り出す。


一人になって家のことをしながら、時々本家や先に出た金岡父、海衣たちと連絡をとりながら、連絡中継班みたいな役割をこなす。

連絡がひと段落し、家でしなければならない仕事もひと段落すると、脱力感に襲われる。

気を紛らしたくて遅れてる日記の下書きや何かをしようと思うけれど、自室のパソコンに向かうと異常なる寂しがりやのプードルさんが悲しそうに吠え続ける。
仕方なくリビングでぼけっとプードルさんの相手をしながら、時々金岡父のパソコンで下書きを書くというような状態で過ごした。


ふと、告別式に参列するために会社を休むことをボスに連絡しないといけないことを思い出した。
けれど、住所録は会社に置きっぱなし。
年賀状を探し出しても、連絡先がわからない。
仕方ないので、いつも持ち歩いておられる会社の携帯にメールをひとつ飛ばし、連絡先の判明した課長に事情を説明しに連絡を入れ、了承を貰う。

またどっと、疲れる。


不意に自室に戻って目の見えない猫とぼけっとしてるうちに転寝してしまった。
部屋の電話の呼び出し音で目が覚めた。


「…はい」
「あ、霄ぁ?元気にしてた?」


…たかからだった。


「どうしてたん?11月初めの地震、大丈夫やったん?」
「うん、大丈夫よぉ。こっち地震多いねん」


何でもたかの家の電話が開通してなくて、旦那さんのお義母さんの電話を借りてかけてきてるらしい。
「あまり長く話せないな」と思っていたけれど、そんなことは何処吹く風。
たかはいろんなことを話してくれる。
イタリアに来てからどんな風に過ごしていたのか。
今住んでる場所がどんなところなのか、これからどうすることになりそうなのか。


「今までね、実家以外どっこも連絡できなくてね。霄のとこが初めてなのよ、連絡したん」


一番最初に連絡してくれる人として、今でもたかの中に私があることがとても嬉しくて。
でも饒舌には話せなくて、ずっとたかの話を聞いていた。

暫くすると、たかのとこにお客さんが来られたらしく、「また連絡するね」と言って会話は終了。


ぼんやりした気持ちに変わりはないけれど、ただ心に暖かさを取り戻してまたリビングに下りる。

台所で下拵えしておいた晩御飯の最後の準備をし、お米を磨いでてふと思う。


…何で、今日なんだろう。


昨日、金岡母が本家に行く時、自分の数珠を海衣に渡してそのまま返して貰ってないということで、急遽私の数珠を貸すことになった。
その数珠はアメジストで、たかが日本にいた時最後に貰った誕生日プレゼントだった。


「どうして、たかさん、数珠なんてくれはったのかな?」
「誕生石の数珠はお守りになるからって」


そんな話を交わしたばかりだった。


…もしかしたら。


これは祖母からのの最後の贈り物かも知れない。
そう思ったこと自体、後になったら笑ってしまうような瑣末なことかもしれないけれど。
ふと、元気だった頃の祖母の言葉を思い出す。


「たかさんは元気にしてるの?」


もう10年近く前のことだ。
まだ病気が長期化すると本人も含めて誰もが予測せず、意識もはっきりしてた頃の話。
私が中学生の頃、たかは祖母が作った手毬を見ていたく気に入ってくれて、いつか祖母に会いたいと話していたことがあった。
私もそれを叶えたくて祖母に話していたのだけれど、いろんな事情からそれは叶わないまま長い時間が過ぎた。

その時は何で会ったこともないたかのことを聞くのかな?と不思議に思っていたけれど。
彼女は知っていたんだ。


私にとってたかはとても大事な友達だということ。


そして、今までたかと連絡がとれず随分気をもんでいたこと。


誰が笑おうがそう思ったんだ。
たかからの電話は祖母からの贈り物なのかなと。


明日、私も本家に戻る。
もしかしたらそれが最後になるかもしれないけれど。
祖母から貰った最後の贈り物を心の内に抱きしめて、ただ一言伝えようと思う。


「ずっと大事に想い続けてくれて、ありがとう」


光も影も

2002年11月23日
今日は金岡両親の結婚記念日
外食嫌いの金岡父が珍しく金岡母をランチデートに連れて行くというのだから、驚きだ。
金岡両親が戻ってくるまで家を出られないのは困りものだけど、滅多に夫婦水入らずのデートなんてないのだから、多少の我慢は仕方ないだろう。
極度の寂しがりのプードルさんと一緒にお留守番。


本当は今日は家にいて夕食を作ろうかなって思ってた。
けれど、それで竜樹さんに会えないのはちと悲しかったので、明日の夕飯にスライドしてもらうことで折り合いをつけた。
本当は会社帰りにでも会えるけれど、休みの日にゆっくり会えるのがいいから。
金岡両親の帰りをプードルさんと待ちながら、明日の夕飯の献立と今日の竜樹邸での夕食の付け合せを考えていた。


金岡母は鍋が食べたいと言い、金岡父はポークソテーが食べたいと言っていた。
本来は世帯主のリクエストを優先すべきところだけど、日頃大変な思いをしてる所帯主のリクエストを優先させることで昨日の夜決着していたので、明日の昼にポークソテー、夜に牛スジの変わり鍋を作ることにしようと思う。
冷凍庫から牛スジと豚肉を取り出して冷蔵庫に移し、じんわりと解凍させる段取りを組み、今日の竜樹邸に持っていく食材をいつでも持って出られるように纏めておく。

着替えていつでも出れるようにしてるのに、金岡両親は予定の時間になっても戻ってこない。


仕方なく竜樹さんに電話を入れて、予定より1時間から2時間ほど遅れることを伝えた。
今回は家庭の事情(?)なので、竜樹さんも快くそれを受け止めてくれた。
とはいえ、早く竜樹邸に行きたいので、少々焦れながらリビングでうろうろしながら、金岡両親の戻りを待つ。

金岡両親は予定より1時間半近く遅く帰ってきた。
金岡両親の話も聞かずに出るのもどうかと思って、少しばかり話を聞いて家を出る。


食材を提げて坂道を駆け下り、駅に着いていつものように電車を乗り継ぎ、竜樹邸に急ぐ。


今日はスタートが遅かったから、少々帰りが遅くてもいいかなんて甘いことを考えながら、やっとのことで竜樹邸に着く。


「朝から留守番、ご苦労さん♪(*^-^*)」


予定よりも随分遅く来たのに、竜樹さんは笑顔で迎え入れてくれた。
昨日買ってきた(比較的)安いステーキ肉やら行きつけの店で貰ったラードやらを台所で広げながら、二人で今日の料理の話をする。

金岡母もそうだけれど、どちらかといえば料理は一人でする方が段取りよく進むので2人で料理をするということ自体ちょっと抵抗もあれば、竜樹さん自身が少々指示出し屋さんなんで、苛地の私はたまにかちんと来るのだけれど。
ひとつのことを2人でする機会を作ってくれることが嬉しい。


にこにこしながら食材を冷蔵庫に片付け、あとは料理をする時間になるのを待つだけ。
竜樹さんの入れてくれたコーヒーを飲みながら、他愛もない話をしていた。
そんな柔らかい時間がずっと続くような気がして、ほにゃんとしてしまってるところに、小さいけれど確かに携帯の着信音が聞こえる。


「…霄の携帯ちゃうか?」


竜樹さんの声にごそごそと鞄を探って、携帯を取り出す。


…家からだった。


竜樹邸に来てることを承知で携帯を鳴らすということは、何かあったんだろう。
出てみると、金岡母だった。


「金岡のお祖母さんが亡くなったから、これから本家に帰らないとならないの…」


…………え?


何か詳細について話をしてるのだけど、その話が頭の中にすっと入ってこない。
金岡方の祖母は長いこと臥せっていたから、そうびっくりすることじゃない。
そう遠くない将来、その日はやってくるって数年前にその容態を見てからずっと覚悟はしていた。


…けれど何故、今日?


人の生き死には、傍にいる人間にとってどんな日であろうが、お構いなしにやってくるもの。
ただひとつの例外もなしに、その日はやってくるもの。
誰の身にも、どんな時でも。


とにかく金岡家に戻らないとならないことだけは確かだ。


なのに、電話を切ってからも身体は動かない。
涙も出ない、どやって立ってるのかも判らない。
しなきゃならないことは判ってるのに、身体のどこも機能しない。


「…お母さん、なんて?」
「金岡のお祖母さん、亡くなったんだって…」
「自宅に戻らなアカンの違うんか?」
「…うん、着替えてバスに乗って帰らないと…」


どうやって家に帰ればいいのかは理解できてたらしい。
それが判って、ようやく部屋着から着てきた服に着替えて、竜樹邸を出る用意は出来た。


「ごめんなさい、竜樹さんの夕食、台無しになっちゃったね」
「そんなん、いつでも出来ることや。
それよりバスと電車乗り継いで帰ったら時間かかるやろ?
薬飲んで送ってやるから」


そう言って、薬の袋から痛み止めを取り出し、水で流し込む竜樹さん。
私がしっかりしなきゃならないのに、終始竜樹さんに段取りを組んでもらって家まで帰ることになった。


車の中ではずっと、本家のおばあさんの話をしていた。
私が本家とあまり折り合いがよくないことを竜樹さんは知ってるから、あまり突っ込んだところまでは触れはしないでいてくれてる。
ひと心地ついて涙が落ちそうになったけれど、咄嗟にそれを飲み込んだ。


「どしたんや?霄?」
「…や、私は泣くことを許されない立場やから」
「そんなん関係あれへんやろ?」
「あの家で泣いてもいいのは、おばあさんの面倒をちゃんと看た人だけですよ」
「それはそうかも知れへんけど…」


夕飯はぱぁになり、おまけに竜樹さんに直接関わりのないことをこれ以上聞かせても仕方がない。
そう思って口を閉ざした。
その間ずっと、竜樹さんは今後のことについてアドバイスをくれていた。
それをただ頷いて聞いていた。


竜樹さんの運転する車は随分早く金岡家に着いた。


「ありがとう」
「あんまり気を落とすなよ」


そう言って別れた。


金岡家に戻ると、金岡両親はこれから本家に行く支度をしていた。
私も当然行くものだと思って容易を仕掛けると、明日以降の予定を本家と分家筋で協議したことをあちらこちらに連絡するために残っていて欲しいとのこと。

慌しい雰囲気にすっかり動転してるプードルさんと一緒にまた留守番。


なんて1日だろう?
喜びごとも悲しみごとも背中あわせに存在することなど重々承知してるけれど、こんなにいっぺんにやってくるなんて思いもしなかった。


生命という基盤の上には、常に生きることと死ぬことが隣り合わせにある。
暖かな関係を続けてこれたことを祝う日に生命の終わりを見たことで、それは忘れ得ぬものになる。


光も影も、自分のすぐ傍にあるのだと…



昨日の食事会でハイになったせいか、朝はちょっとしんどかった。
思った以上に夜の冷え込みが厳しくて、喉やら関節やらが痛い感じがする。
それでも気持ちは、随分軽くなっている。
笑顔は間違いなく笑顔をつれてくる。
そう思って家を出る。


会社につくと、あちらこちらでゴホゴホとかズルズルという音が聞こえる。
社長からスタートした風邪は同僚さん、ボスを経由し、私と課長で枝分かれ。
課長から2名いる係長、そして一番若い課員さんに感染っていってる。

「日増しに勢力を増すような気がするのは、末端に行くにつれて若い人になるからだ」なんていおうものなら、接待風邪でげふげふ言ってるボスからは間違いなく反撃を食らうだろう。
風邪薬を手放さない状態でいてるからこそ、軽症で済んでいるけれど。

風邪気で出張に出て行く課員が出張先で盛大なる風邪にして会社に戻ってくることを思うと頭が痛い。

今日はまだ仕事が緩やかなので体力の消耗も小さくて済むけれど、仕事の量がどこで跳ね上がるかは読めないから、早めにケアをしておこうって思う。


鼻声のボスのちゃちゃは今日も盛大。
風邪を召されても賑やかなのはボスのキャラなのだろうか?
あまり接触してひどい風邪を貰うと、竜樹さんに感染してしまいかねないからとこそことそ避けてはみるけれど、これまた無駄なお話。
出張風邪は避けられても接待風邪は免れないのかなどと心の中で少しだけ毒づいてみたけれど、ボスの前ではにっぱり笑顔。
ボスに笑顔を向けると間違いなくボスからも笑顔が返ってくる。
それは少なからず居心地の悪い会社の空気を柔らかくするから。
仕事を進めつつ、ボスのちゃちゃを受け返していた。


仕事が少し楽だったので、いろいろと作業をしてみるけれど。
右目の状態はまだ不安定。
仕事でもディスプレイや書類を眺める時間が長いので、注意してないとまた右目が真っ赤になって涙が止まらなくなる。
身体そのものはそれほどしんどくなくても、一部分でも不調をきたしてるとそこから疲労が嵩んでくるから。
気をつけながら仕事や作業を済ませ、家に戻った。


猫と戯れ夕飯を食べて、ひと暖楽してから竜樹さんに電話をしてみる。


「お加減、いかがですか?」
「まずまずやねんけど、薬がなくなったから明日病院に行ってこようと思って」


手術をしてまだ2ヶ月と少し。
まだまだ痛み止めが手放せないと聞くと胸が痛くなりそうだけど。
考え様によっては、頻繁に病院に行かなくてもいいところまでは回復してるのだとも言えるし、そうがっかりすることもないのかもしれない。


「なんかねぇ、会社で風邪が蔓延してるから気をつけてくださいね。
私も気をつけてはいるつもりだけど、出張風邪やら接待風邪やら貰う機会は多いから…」
「俺、ちゃんとうがいしてるし大丈夫やと思うよ。
霄もちゃんとうがいして、早く休めよー」


竜樹さんは具合の悪さが嵩んだ時のことを知っているから、ちゃんと自分でケアしておられる。
それの足を私が引っ張ってはならないから、私も風邪を引かないように気をつけねばならない。


竜樹さんの身体を思うなら、自分の身体も思わなければならないなどというのは、別に今に始まったことじゃない。
会社で貰ってしまった風邪をうっかり竜樹さんに感染させて、しんどい目をさせてしまったこともあったし…


大切な誰かを思うように自分のことを思おうなんて、昔は考えたことはなかったけれど。
自分が元気でいれば、竜樹さんも元気でいられる。
多少竜樹さんが具合を悪くされても、私が元気ならちゃんと受け止めて対処できる。


大切な人を想うように自分も大事にしないとダメなんだろう。
自分を好きでなくても、大切な人は自分を想ってくれているのだから。


身体に居座り始めてる接待風邪も軽いうちに追い出してしまおうと思う。



今日は竜樹母さんの誕生祝の食事会の日。

いつもよりも幾分きれい目のカッコをして、鏡の前であぁでもないこうでもない…
そうしてるうちに家を出ないといけない時間になって、慌てて家を飛び出す。
朝メールを打とうとして、鞄を探って気がついた。

…あろうことか、携帯を忘れてきた(>へ<)


何処に忘れてきたかを思い返して、頭の中に?マークが飛び交う。
どうやら、台所に忘れてきたらしい。
何故そんなところに忘れてきたのか、さっぱり判らない。

昨日竜樹さんに「会社が終わったら電話で位置を確認しながら落ち合おう」と話していたところなのに…


とりあえず携帯を持ってないということを竜樹さんに知らせておきたくて、公衆電話から竜樹さんの携帯を鳴らすけれど、竜樹さんは出ない。
次の電車の時間が押し迫ってるので、仕方なく電話から離れて電車に乗る。

いつもならメールを打ってるうちに何時の間にか乗り換えの駅が来て、やがて会社の最寄駅に着くのだけれど、携帯がないというだけで一気に手持ち無沙汰になって移動の時間がやけと長く感じる。

それでも移動時間中ずっと携帯をにらんでいると、まだ不安定な右目には負担になるから、これはこれでよかったんだろうと無理やり納得させて長い移動の時間をやり過ごす。


事務所に入り、俄かに戦闘モードを発動させていく。
今日は仕事が後ろに引っ張ることは許されないから、時間が見繕えたら前倒しできるものは片っ端から前倒ししていく。

幸い、外から飛び込むイレギュラーの仕事がそれほど多くなかったから、定時ダッシュができそうなペースで仕事が片付いていく。


昼休みになって、竜樹さんに電話する。


「…もしかして、携帯忘れたんか?」
「そうです…(._.)
お店で集合にしましょうか?」
「いや、ややこしくなるから…」


結局、竜樹邸経由で料理屋さんに行くことに決定。
ますます仕事を後まで引きずるわけには行かない。
ご飯を食べ終わり、ボスティーを煎れた後、また仕事を片付け始める。
おかげで順調に片付いていく。


あと30分で定時というところで、ぶっち切れそうになるようなことが発生。
必要なものをすべて揃えて返した書類がないと、別の部署の社員さんが連絡を入れてきた。

何をどれだけの数揃えて返したかも知らせたけれど、さも私がなくしたようにぶつぶつ言ってくる。
ひとまず「こちらの方でも探します」と言ってはみたものの、2時間前に揃えて相手に返した書類が私の手元にあるはずもない。

彼がなくなったなくなったとキレ気味に騒いでる書類は、紛失したとなれば親会社の人の手を借りなければならなくなるようなちょっと特殊な書類。
この時点で定時まであと15分。
いくら書類の再発行をしてくれる親会社の社員さんに懇意にしてもらってるとはいえ、お願いしてすぐに出るような代物じゃない。


…自分の管理してるものくらい、自分で管理できませんか?


この会社でこれを言えば上を下をの大騒ぎになるだろう言葉が口をつきそうになるのを必死で抑えている。
時計をにらみながら対処を考え、書類をなくした当人に「対応は明日の朝一番にします。もし見つかったら連絡ください」とだけ言い残して、事務所を後にした。

対応を投げずにちゃんと決着つけたかったけれど、自分の書類の管理も出来ない上にその責を人に押し付ける人にお付き合いする気にはなれなかった。


今日は竜樹母さんのお誕生会の日だもの。


定時5分過ぎまで書類を捜して、ぱちんとスイッチが切れた。
慌てて着替えて自転車をかっ飛ばす。
駅のホームから竜樹さんに電話を入れて、電車に乗り込む。

乗り換えの駅から竜樹さんに電話を入れると、最寄の駅まで迎えに行くとのこと。
次の電車が何分に出るかを知らせて電話を切り、慌ててその電車に飛び乗る。


待ち合わせの駅に着いて、竜樹さんといつも落ち合う場所でぼけっと待つ。
料理屋さんに予約を入れた時間が迫ってきてるのに、竜樹さんの車は未だ来なくて気持ちだけが急いていく。

けれど、元を正せば私が携帯を忘れさえしなければ、もっと段取りよくいくはずだったんだ。
堂々巡りな思考回路に陥りそうになったところに、竜樹さんの車がやってきた。
後部座席を見ると、竜樹さんのご両親も乗っておられた。


「すいません、携帯忘れたばっかりにご迷惑をおかけしまして…」
「こちらこそ、会社帰りでしんどいやろうに出てきてもらって申し訳ないです…」

ひとしきり挨拶して車に乗り込み、予約してる料理屋さんを目指す。


会社帰りの時間帯になるから、道路は割と混んでいる。
それでも車が動かない程の渋滞ではないから、竜樹さんもそれほど機嫌を悪くされることなく運転に専念しておられる。
後部座席では竜樹母さんと竜樹父さんが話をしているけれど、竜樹母さんの話題がぼんぼん飛ぶので会話を冷静に聞いていると変化に富んで面白い。


…竜樹さんにそれをやると、途端に機嫌が悪くなりそうだけどね(-_-;)


辛抱強くお付き合いしてる竜樹父さんの懐の深さみたいなものを垣間見た気がする。
時々とんでくる話題に対応しながら、店までの移動を続ける。
もしかしたら、予約の時間から遅れるかもしれないと気を揉んでいたけれど、食事の時間よりも15分ほど前についた。


今日の料理は豆腐懐石。
コースの献立は竜樹さんに選んでもらった。
竜樹さんのご両親・竜樹さんと私がそれぞれ違うコースを取ることになる。
主賓の竜樹母さんに珍しいものを食べてもらいたくて、「汲み上げ湯葉のついたコースにしておいてね」とさりげなくお願いしたことを竜樹さんは考慮してくれてたみたい。

お店の人に案内されて入っていくと、個室を用意してくれていた。
部屋に入って少しくつろいだ後、ビールを頼んでまずは乾杯。
竜樹さんは運転するので、彼につがれたビールは私のところに回ってきたけれど…

そうしてるうちに、料理がどんどん運ばれてくる。
料理を運んでくれる人から料理の説明を受け、それぞれ感心しながら食べ始める。

あまり量を食べることの出来ない竜樹母さんからコースの料理を少し分けてもらいながら、楽しく話しながら料理を口にする。
竜樹父さんも竜樹母さんも何だか嬉しそうに食べてくれている。

そんな様子を見ていると、少々予算が高くついてもこれでよかったのだと思える。

竜樹さんのご両親の様子を眺めながらにこにこと料理を口にしつづける。
密かに「あ、これ今度作ってみよう」と考えながら食べている。
考えながら食べていると、竜樹さんが話し掛けてくる。


「霄に店を選んでもらってよかったわ。
こんなにゆったりくつろげる部屋で食事できるとは思わへんかった」


私も予約を入れたら個室にしてもらえるなんてことは知らなかったけれど、喜んでもらえるならそれが一番。
湯葉が出来上がるたびにお箸で取って食べるのだけど、それもにわかに盛り上がり。
湯葉を食す時に入れる柚子の削り方ひとつでもまた盛り上がり。

久しぶりに賑やかな食事の楽しさに触れた気がする。


「長く生きては見るものね」と竜樹母さん。
「こんなにいいところで食事をできるとは思わなかったもの」と続く。

「何を言うてはりますねん。まだまだこれからやないか」とは竜樹父さん。


そんなやりとりが暖かく思える。
2時間近く続いた食事会を終え、車に乗って家に向かう。
本当はお茶をして帰ろうかという話もあったけれど、まだ明日も仕事があるということで体力温存策をとろうということで落ち着いた。


「またお茶は次回のお楽しみということで♪」


帰りの車の中でも、ずっと話に花が咲く状態。
運転に集中したい竜樹さんには傍迷惑だったかもしれないけれど、竜樹さんのご両親の明るい表情が見れたことがただただ嬉しかった。


竜樹さんのご両親とは竜樹さんと一緒にいはじめてそれほど間がない頃にお会いしてる。
金岡両親とのことやそれまでの経過を思うと、必ずしも手放しで喜べる話ばかりでなかった。
そのことを思うと、とてもじゃないけど竜樹さんのご両親に私が大事にされよう筈はなKったと思うのに、竜樹さんのご両親はとてもかわいがってくださる。


ありがたいと思うのと同時に申し訳ない気持ちで一杯になるけれど…


楽しい宴の後に自分の気持ちを伝えるなら。
きっと「申し訳ございません」ではなく「楽しい時間をありがとうございます」の方がいいのだろう。
いずれ竜樹さんともっとずっと一緒にいることになる時、否が応でも「申し訳ございません」と心から頭を下げなければならない日も来るのかもしれない。

それなら今日は「ありがとう」と伝えたらいい。
自分たちが考えて作り上げた時間や計画を額面以上に楽しんでくれたこと。
そのことが嬉しいという気持ちだけを伝えたらいい。

そんなことをぼんやり考えているうちに、竜樹さんの車は金岡家の前に着いてしまった。


「今日は楽しんで頂けたのが嬉しかったです。
また一緒にご飯を食べに行けたら嬉しいです。
ありがとうございました」


そう言って、車を降りた。
外の風は冷たかったけれど、心はとても温かだった。



朝起きたら、右目が微妙に腫れてて涙が止まらない。
昨日の夜から右目の下瞼にぷちっと何かが出来てて、触ると痛いからやばいかなと思ったけれど、ここまでひどくなるとは思わなかった。

リビングにあったはずの抗菌目薬もない。
だんだん右目の視界が狭くなってきたので、会社に電話をして眼科に寄ってから出勤する旨を伝えた。


かかりつけの眼科はいつも超満員なので、気が進まない。
さりとてお役所みたいな勤務形態の病院なので、仕事帰りに寄ることも出来ない。
涙が止まらず真っ赤になった目を診てもらいに仕方なく病院に行く。

思ったよりも病院は混んでいなくて、すぐに見てもらえた。


「あー、これ、かかりかけのものもらいやね。
最近寝不足だったり疲れてたりしてるでしょ?
ダメだよー、ひどくなったら切らなきゃならなくなるから」


初老の先生は首のリンパ腺を触診したり、右目を見たりしている。
抗生物質と痛み止めと抗菌目薬を貰う処方箋を貰って、ところてん状態で病院を出た。

処方箋を持って薬局に行くと、薬剤師さんが問診表を眺めながらあれこれ説明してくれる。
鎮痛剤で薬疹が出るかもしれないから気をつけてくださいねと念押しされて、薬を貰って会社に向かう。

「薬局で薬を貰ったら、すぐに飲むんだよ」とお医者さんにさんざん念押しされていたので、コンビニでエビアンを買って電車の中で薬を飲む。
ぼんやりとメールを打ちながら、会社に向かう。


思ったよりも早く診察が終わったので、仕事にそれほどの影響はなかった。
ただ立ち上がりがいつもよりも遅いので、仕事の進みは悪い。

おまけに薬剤師さんの予言通り、薬疹が出た。

体中がかゆくてたまらなくて、集中力も落ち気味。
何とか仕事上のミスが出ないように注意を払いながら進めてると、午前中の時点ですっかりくたびれてしまった。


同僚さんの後を引き継ぐ係長さんが引き継ぎのために事務所にいるのだけど、やっぱり私はこの方が苦手だ。

もれ聞こえる話では、他の部署の仕事の兼任になるとのことで、別の階で仕事をなさるという噂もある。
電話が鳴ろうが事務所がばたつこうが(故意であれ故意でなかれ)我関せずで臨んでおられるので、どっちだっていいのだけれど…

入社してから小さなことから大きなことまで結構いろいろ嫌なことされてるから、同じ忙しくて目が回りそうになるなら、同じフロアで仕事しない方が精神衛生上にはいい気もする。


人のことをあまり悪く思いたくはないけれど、ボスに電話での会話で聞こえた部分を漏らされたということが私の中ではずっと緒を引いているから、考えれば考えるほど鬱モードが加速していく。


…あんまりこんなことを気にしてる場合じゃないんだけどね(-_-;)


明日は竜樹母さんのお誕生日なので、お誕生会を兼ねてどこかで食事会をしようという話をちょっと前から竜樹さんとしてた。
お店選びを任され、よさそうなお店を幾つか探して竜樹さんには伝えてあるのだけど、予約等の進捗状態が見えない。

身体の状態が思わしくないからなのか、それとも単に鬱っ気を誘う仕事のことに意識を置き過ぎたくないからなのか。
仕事を片しながら、明日の食事会のことを考えていた。


気がつくと、次の薬を飲む時間になっていて慌てて1種類だけ薬を飲んだら、ものの見事に薬疹が出る方の薬を飲んでしまった(-_-;)

ちょっと油断するとへまをやらかすと判ったので、食事会のことは意識の隅に追いやってまた仕事を黙々片付けることに専念した。


かゆさに耐えながらようよう仕事を片付けて、事務所を後にする。
竜樹さんに連絡を取って明日の準備をしなきゃならないとは思っていたけれど、何となくそのまま家に帰る気がしなくて自宅とは反対方向の電車に乗る。
かゆみもちょっと治まってきたので、鬱っ気を完全に追い出すべくいろんな場所へ行ってみようと思って街をちょろちょろしていたけれど、右目の涙が再び止まらなくなって敢え無く断念。

寄り道の目的を殆ど果たさないまま、今度は自宅を目指す。


時計を見ると、夕飯時。
うっかり家に戻ってゆっくりすると、明日の食事会の予約をするのに極めて微妙な時間になりそうなので、竜樹さんにお伺いのメールを飛ばす。


「今日は元気ですか?
私は仕事でこてぱきにされました(>_<)
明日はどんな予定で進めるか、また教えてね」


そう飛ばしてから、ふと再手術前最後のデートで寄った中華レストランのことを思い出した。


…あのレストランでもいいかもしれない


慌ててお伺いメールを打って飛ばす。

程なくしてお返事がきた。


「あのレストラン、駐車場あったかな(’’)?」


自宅にいてないので、調べ様がない。
メールでやり取りするのがだんだんもどかしくなってきて、竜樹さんにダイレクトに電話してみた。


「今、自宅にいないから駐車場があるかどうか判らないねん」
「そっか。そしたら、最初に教えてくれた店に連絡して確認してみるわ。
もう家に帰ってるんか?」
「いいえ、まだ出先です」
「そしたら、そらが家に戻ってから相談して決めようか?」


外で話していても埒はあかない上に、家に帰ってから相談して決めるなら早く帰らないとならない。
慌てて発射間際の電車に飛び乗り、電車を乗り継いで家に戻る。
夕飯を食べて、ひと段落してから竜樹さんに電話したら…


…竜樹さん、すでに私が最初に教えた料理屋さんに電話して予約を済ませていた


相変わらず突然物事を決めてしまうので、面食らってしまうけれど。
そのちょっとした強引さが物事の流れをよくするならそれでいいのだろう。


「お母さん、喜んでくれるといいね」
「そればっかりは明日にならんと判らんけどさ…
明日は早く出られそうか?」
「お母さんのお誕生日ですもん。頑張ります♪」


そう言って電話を切る。

会社に行くと、鬱々することがあってどっと疲れてしまって、その鬱々を引っ張りたくなくて夜更かししていろんなことをしようとするけれど。


「ちゃんと寝ないと、ひどくなるよ?
切らなきゃならなくなるよ?」


お医者さんの念押しの言葉が頭を掠める。


鬱々は完全に抜けたわけじゃないけれど、目を腫らして竜樹母さんの前には出られない。
嬉しい日には元気な私で出逢いたい。
たとえ事務所では鬱々を引っ張ることになっても、事務所を出たら元気な私になりたい。

せめて明日1日でいいから。


元気な私に戻るための力を蓄えるために今日は休むことにしよう。


嬉しい日には元気な私でいたいから…
友達と楽しい会話を終えた後何故かあまり眠れず、ぼんにゃりと朝を迎えた。
意識を起こしがてら朝メールを飛ばすけれど、意識が起きる作用よりも意味不明な文章を撒き散らしてるだけの感が否めない。
何通かの無駄に長いメールを打って飛ばし、電車を降りる。
立ち上がりが悪いとずるずると鬱っぽくなるのは悪い癖だと思いながらも鬱っぽさから抜け出すことが出来ずないまま自転車を飛ばす。


冷たい風を切って社屋まで飛ばし、事務所に上がると…
背筋が寒くなりそうなくらい、嫌な仕事の立ち上がりだった。
何が忙しいのかよく判らないけれど、建設的な仕事の忙しさでないのだけは確か。
無駄に仕事が立て込んでくると、鬱々モードは更に加速していく感じがする。

来年から別の部署の係長さまが同僚さまの仕事を引き継ぐのだけど、係長という肩書きのついてる人に雑用までさせる訳にはいかないから、しょうもない雑用は更に増えることが間違いない。

前の会社で「自分で出来ることは自分でしたらいい。雑用に時間を割くくらいなら、もっと建設的に仕事をしろ」という精神を叩き込まれすぎているから、ここでやる雑用が本当に無駄なもののように思えてならない。
それを仕事として割り切るには(他部署を含めて)他の人のカバーに回る作業も多すぎる。


…出来るはずの仕事もすべき注意力もみんなどこかに落っことしてきてる人らのことをどうこう思うこと自体が時間の無駄なんだよなぁ


そんな思考の走り方は入社した時からずっと変わらない。
そんな思考の動き方ですら、どこか進歩がないような気がしてまた鬱モードを加速させる。
げんなりしながら、午前中の仕事を済ませる。

昼休みもご飯と雑用済ませたら何もする気もせず、ボスと会話することですら正直煩わしかった。

鬱モードを掃いたくて、携帯に保存してある竜樹さんのかわいらしいメールを読み返しながら、どうにか昼からは鬱モード50%削減に成功。
また意味もなく降ってくる仕事をきりきりと片付けた。


1日の仕事を終え、事務所を後にして。
竜樹さんに「仕事終わりましたメール」を飛ばしたいと思いながらも、どこか自分の気持ちを伝えることに対して煩わしさが付き纏うような感じがしたので、携帯を鞄にしまいこんだ。
急激に襲ってくる睡魔に負けてしまいそうになりながら、電車を乗り換えてまた別の電車に乗って移動の旅を繰り返した。

どうにか家にたどり着いてからも、着替えに上がった部屋で何もする気になれずに猫と暫く転寝してしまう有様。
猫をケージに戻すためにリビングに下りてやっと夕飯があることに気づいて、慌ててご飯を食べる。
食事を摂る前に少し眠ったからか、ちょっと頭はすっきりして鬱モードも取れている。


ぼんやりしてると、部屋電が鳴った。
竜樹さんかな?と思って出ると、絵のお師匠様だった♪
相変わらず伝わる空気のまぁるい方なので、話していて疲労感を覚えない。
それどころか、自然とテンションがあがる。
「かけてもらった電話はさっさと切るように」というのは竜樹さんからも言われてることだけれど、話は留まるところを知らない。


お師匠様の話は新しい目を開く感じがする。

それは誰と話してもそういうものなんだと思うけれど、お師匠様の話は特にそういう風に強く感じる。

竜樹さんが身体の具合を悪くされてる時にとっさにでる刃のような部分に潜む感情のかけらの色もお師匠様のある言葉ではっきり捕らえることが出来た。
竜樹さんとの関係だけでなく、私の知らないことに対する目を何気なく広げてくださる。


そうやって見せてもらえる新たな風景が嬉しくて楽しくて、気が付いたらお師匠様の子機の電池が尽きてしまった。


…慌しく電話を終えるのが、お師匠様と私のお約束になりつつある(^^ゞ


会社にいてる間、ともすると私は人嫌いなのかな?と感じる瞬間が幾度もある。
そう思うと何故か鬱モードにシフトしやすくなってる自分を見つけて、ちょっとへこむのだけれど。

誰かと話すことによって広げられた心の目を喜べるうちは、まだ人嫌いじゃないんだろう。


「一人でいる時間も大切やけど、孤独にだけははまるなよ?」


随分昔竜樹さんが言い聞かせた言葉がふと心を掠める。
その時は何故竜樹さんがそう仰ったのかはっきりとは判らなかったけれど、今はより強く感じる。


誰かの心に触れることで、開く目があること。
それは必ずしも自分の心に心地いいものばかりではないけれど。
新しく生まれる心の目で見る景色から得られることは少なからずある気がしてる。


お師匠様との会話から新しい心の目が生まれ、昔の2人のいた時間を旅することができた。
二人のいた時間を旅することで得られたことがまた新しい目を開く。
いろんな目が開いたような暖かな時間を抱きしめて1日を終えられたことが嬉しかった。

知るべき時が来たら

2002年11月17日
今日は1日何の予定もない休養日。
竜樹さんと別れた後、1日の出来事に思いを馳せてごろごろ転がってるうちに眠ってしまい、ぼんやりと目が覚めてからは猫と遊んだり、パソコンの前に向かったり。


金岡家では少し早い大掃除。
リビングをせっせと片付けてる両親の手伝いを少しばかりして、賄いのために台所に立つ。
買って暫く置いておいたセンレック(タイ料理に使う米の粉で作った麺)を戻し、シーフードミックスと一緒にフライパンで炒め、醤油とナンプラーで味付け。
名前もつかないような焼きそば

冷凍のシーフードミックスの下処理をずるせずに、ちゃんと湯通しすればよかったと思ったけど、概ね好評のうちに賄いタイムが終わる。
また少し手伝って、ひと段落ついてから自室に戻る。


それからは猫と戯れながらあれやこれやと作業を続け、ちょっと疲れたのでネットを散歩する。
いつもの巡回コースから少し外れた形で、久しぶりにある場所に立ち寄る。


…そこで思いもかけないものを見つけた。


そこでそれを見ることはもうないと思っていた。
想いのかけらは想いのかけらのままで、時間と共にそっとどこかへ消えてしまうものだと思っていた。
それが本当に現実に起こったことなのかと、何度も何度も見返した。


…見返してるうちに、「もしかしたら…」って思ったことがある。


でもそれは拡大解釈も甚だしいだろうと、その感覚を意識の端に追いやった。
もしもその感覚が正しいなら、とても嬉しいけれど…

それまでのことを振り返りながら、嬉しいような切ないような複雑な気持ちを抱えて暫くぼうっとその光景を眺めていた。


もしかしたら物事には知るべき時期があって、それは自分だけで決められないものなのかもしれないなんて、柄にもなく考えてしまった。
いいことでも悪いことでも、知るべき時は間違いなくあるのかも知れない。

知ることになるだろう人が好むと好まざるとに関わらず、ある日突然やってくるもの。

そんなものなのかも知れないなぁとぼんやりと考える。


6月に札幌までW杯を観に行った時にもそんな風に感じたような…


それを知ったところで何が変わるとも思わない。
想いの質が変わることも、距離そのものが変わることもきっとない。


それでも死なない何かは確かにあるのかも知れない。

それが判っただけで今は十分だ。
その出来事の根っこにあるものを、今はまだ知らなくてもいい。

知るべき時がくればちゃんと判るのだろうから…


それでも何となく誰かと話してみたくて。
そんなことがあったんだよと伝えてみたくて。
たまたま連絡をくれた友達にそんな話をしてみた。
少々子供じみた感情をただ静かに、やわらかく受け止めてもらえたのが嬉しかった。


竜樹さんとのこともそう。
大切な誰かとの間でもそう。
知るべき時が来たら、自ずと見えてくる景色がある。

その景色が自ら姿を見せるまで、もう少しだけ自分を取り巻く環境の中で泳いでいけたらいい。


その景色に出逢うまで…


昨日の夜はお客がやってきたせいで、何もせずに眠ってしまった。
そのせいか、休みの日にしては早く目が覚めた。
よく寝たくせに、お腹が少々痛かったり身体にだるさが残っていたりしてるから、もう少しだけぐずぐずしてたい気もするけれど、今日は竜樹邸にてたこ焼きパーティ。

たこ焼きパーティ自体は結構時間がかかるから、いつもよりもスタートを早めておく必要がある。
だるさを掃うようにして起き上がって用意を始める。


意識がしゃんとし始めた頃に竜樹さんに電話をすると迎えに来てくれるとのことなので、食材を入れた袋をまとめて玄関でうろうろうろうろ…
携帯が鳴って家を出て、竜樹さんの待つ場所に向かう。


「昨日、しんどいのにちゃんと仕入れてんなぁ♪(*^-^*)」
「昨日竜樹さんが頑張ってくれたように、ちょっと頑張ってみました♪(o^−^o)」


そう言いながら食材袋を眺めていてとんでもないことに気がついた。


…たこ焼き用の粉を買うのを忘れてしまった/( ̄□ ̄)\ !


用意周到万事オッケー状態に持っていけたと思ってると、どこかでぽこんと忘れ物をする。
年々バカになってってるんじゃなかろうかと落ち込みはしたけれど、幸い竜樹さんが他に必要なものを買い足したいと仰ったので、途中のスーパーで調達できた。
少しばかりの渋滞を抜けて、竜樹邸に到着。
気分転換のコーヒーを少し飲んで、たこ焼きパーティの準備を始める。


最初はたこ焼きの生地を作る。
たこ焼きの素の袋の分量どおりに作ると、どうも幾分硬い感じの生地になる。


「もっと水入れな、アカンで」


リビングで休んでた竜樹さんが手伝いにきてくれ、2人で生地を作り上げる。
その後、私はタコを切る係、竜樹さんはネギを切る係……になる予定だったけれど、ネギ類を切ると涙が止まらなくなる竜樹さんを見るに見かねて交代。
延々とネギを小口切りしてる間、竜樹さんは2階に食材を運んだりセッティングしたりしてくれている。
ネギを切り終えると、2階ではもういつでも始められる状態になっていた。


前回ちっさなたこ焼きプレートで作って苦労したので、今回は電気タコ焼き器を使うことにした。
電気たこ焼き器の取説を見ながら、竜樹さんが生地の入れ方を指示する。


…こないだはすき焼き奉行、今回はたこ焼き奉行な竜樹さん


奉行の指示通り生地を流し込み、ネギや天かすを散らしていく。


「…あっ!!/( ̄□ ̄)\」


お奉行様は派手に刻み生姜をばら撒いておられた。
笑いを堪えつつも、じっとたこ焼きをひっくり返すタイミングを待ちつづける。
思ったよりもたこ焼きが焼けるのは早かった。
喜んで皿に移し、ソースや青海苔をかけて「いただきます♪」


「…辛い!!!(>へ<)」


辛いものがダメな竜樹さんに大量の生姜が入ったたこ焼きが当たった模様。
水を飲んでもまだちょっとむせておられる。
次のたこ焼きを約準備に入ると「頼むから生姜の量は控えてくれなぁ」と奉行らしからぬ泣きモード。
辛いのが本当にダメなのは一昨年の神戸小旅行で実証済みなので、極力生姜が入り過ぎないように気をつけながら、たこ焼き器に流し込んだ生地の中に生姜を落としていく。


ここからは殆どわんこたこ焼き状態。
焼いては食べ焼いては食べ……
このサイクルが異常に短くて、みるみるうちにおなかがいっぱいになる。


2時間近くたこ焼きを食べつづけ、2人とも暫くはたこ焼きを見たくないような状態になっていた。


洗い物をキッチンに持っておろし、後片付けをして休憩。


「…霄ぁ、押し入れ開けてみ?」


そう言われて押入れを開けてみると、真新しいお布団のセットがひと組鎮座してた。
出してみると敷布団も掛け布団も枕もみんな同じ柄で統一されている。
「使ってみる?」と言われたので、敷いて横になる。


…軽くてふっかふか♪(o^−^o)


お布団に包まってすぐ傍の布団で横になってる竜樹さんから差し出された手を握り締めてるうちに眠ってしまった。
目を覚ますとあたりは少し暗くなり始めている。
寝入ってしまってる竜樹さんを起こさないようにそっと起き出して、ふっかふかのお布団の上に最近お気に入りのタオル地のおっきなプーさんのぬいぐるみを置いて階下に降りて、夕飯の支度に取り掛かる。


今日の夕飯は、煮豚と小松菜と鶏肉の煮物の2品。
今日は少し多めに夕飯の食材を買って来たので、竜樹さんのご実家の分もあわせて作ることにした。

煮豚は一昨日の金岡家の夕飯に登場、あまりにあっさりと美味しかったので金岡母に作り方を聞いておいた。
豚肉の塊を茹で、沸騰したら火を止めて取り出しておく。
醤油・酒・みりん・砂糖・ニンニク・生姜を入れて煮立てた鍋に豚肉を戻し、汁気が少なくなるまで時々肉をひっくり返して満遍なく味を染み込ませて完成。
竜樹父さんがニンニクが苦手なので、味をつける段階で鍋を二つに分け、ご実家の分はニンニク抜きで味付けすることにした。

小松菜と鶏肉の煮物。
鶏肉は一口大、油揚げは縦に千切り、ニンジンは短冊切り、小松菜は5センチほどの長さに切っておく。
鶏肉をごま油で炒め表面の色が変わったら、鶏がらスープと酒、醤油、みりんで味を調えただしに、油揚げとニンジン、小松菜を入れて少し煮て完成。

どちらとも煮るだけで済むので、煮てる間にご飯を炊き、後片付けを済ませておく。


「…すごいええ匂いしてるなぁ(*^-^*)」


どうやら煮豚の匂いで起きてこられたらしい(笑)
竜樹さんにお願いしてご実家に煮豚と煮物を持って行って貰った。

竜樹母さんはまだ夕飯の支度をされてなかったとのことで、ちょうどいい時に差し入れする形になったよう。
竜樹母さんは毎日忙しくされているので、週に一度くらい一色でもいいから夕飯作りを休ませてあげられたらって思ってた。
私のすることが役に立ったなら、何よりだって思う。


竜樹さんが戻ってこられて、ちょっとした差し入れを頂いて。
それとあわせて夕飯を食卓に並べて「いただきます♪」


「美味いわ♪煮豚も煮物も♪」


最近、どちらかといえば和食党にシフトしつつある竜樹さんには大満足なご飯だったらしい。
多めについだつもりだったけれど、きれいになくなってしまった。


後片付けをしてひと休みしてると、横になってる竜樹さんから「おいでおいで」される。
その横で暫くくっついて過ごす。


2人で何かをしたり、ご飯を食べたり、くっついていたり。
その時間はふんわりと柔らかい感じがする。
竜樹さんが私のために用意してくれたふっかふかのお布団みたいな時間。
その柔らかさにずっと包まっていたいって強く強く思った。

楽しみがいっぱい

2002年11月15日
竜樹さんと電話で少し話してから、日記の追っかけ更新の作業に入る。
作業がひと段落してから、神戸小旅行の宿泊先の予約した。


…これでまた、神戸で楽しい時間が過ごせるんだぁ


まだひと月近く先の話だというのに、妙にわくわくしてきてなかなか寝付けない。
まるで小さな子供さんのようだなぁとちょっと呆れながら、うつらうつら朝を迎えた。


今に始まったことじゃないけれど、言葉の扱い方の難しさをじわじわと思い知るようになってしまってて思ってることを言葉に置き換える作業がなかなか進まない。

どんなに配慮を尽くしても、齟齬も起これば人も傷つける。
誰かの何気ない言葉が自分の中で引っかかったり、嫌な思いを齎したりするのと同じなのかもしれない。
言い訳でもなんでもなく、究極の正義なんて存在しないのかもしれない。
それでも、配慮なしに言葉をぶちまけて歩くよりかは、気をつけながら言葉を選んでいく方がたどり着く結果が同じでも、まだマシなのだろうと思いながら。

取り立てて何があったという訳でもないけれど、そんなことを考えながら出勤した。


仕事が始まると、朝考えてたことを覆してやろうかと思うほどに無神経なことがたくさん転がっていてうんざりしたけれど。
それも今日1日我慢しさえすれば、楽しい週末が待っているのだからとじっとやりすごす。
時折飛んでくるボスの言葉には笑顔が返せただけよしとしようかというような状態で、今週の仕事を終える。


身体はよろよろだけど、気持ちだけはちょっと浮き足立ったような感じで事務所を後にする。
家に帰る途中、明日の食材を買い込むことにするため、ちょっと寄り道。
明日は魚介類も肉も野菜も使うので、ひとつの店で買い出しが済まない。
途中下車して袋をひとつ持ち帰り、また電車に乗って途中下車して袋をひとつ。
会社を出る時はちいさな鞄ひとつだけしか持っていなかったのに、大きな袋がひとつふたつと増えてくる。

電車で移動中、寝てしまいそうだったので友達にメールをひとつ。
ちょうご飯ごしらえの時間帯だったので、食材話に花が咲く。

…食材話に花が咲きすぎて、買い物かごを提げ食材を物色してる間も携帯をこちこちやる羽目になったけれど(^^ゞ


お目当ての品・お買い得品満載状態でバス停に向かう。
待ち時間の間、手持ち無沙汰でまたメールをこちこち。


「明日の食材、買ったよー♪
あとは明日の用意して、早起きすればオッケーさ(*^_^*)
楽しみにして待っててねん♪」


竜樹さんにそんなメールをひとつ飛ばして、寒空の中バスが来るのをじっと待つ。
すると、携帯にお返事ひとつ。


…私専用の布団セットが用意されてるらしい(o^−^o)


おまけに何時の間にか新しいガスコンロまで手に入れ、セットされたそう。
これで料理も今まで以上に料理しやすい環境になって、ますます竜樹邸での料理が楽しいものとなりそう。

混んだバスの中で重い食材を提げているのは辛いけれど、明日のことを思うとさほど辛いとも感じないでいられる。


機嫌よく家に帰り着き、ずっとにこにこしっぱなしで過ごす。
自室に戻ってから、明日の打ち合わせのために竜樹さんに電話して話しこむ。
お布団のセットのことや新しいガスレンジを据え付けたことを楽しそうに話してくれる竜樹さんにますます明日が楽しみになる。

12月の宿泊先を予約したことを話すと、「頑張って体調整えなアカンなぁ」と穏やかに話す竜樹さんの様子にまた楽しみは広がっていく。


これから寒さが厳しくなってくると、不安になることは幾つもあるのだけど。
楽しみがいっぱいあるなら、それを糧にまだ頑張れるような気がする。


竜樹さんと一緒にたくさんの楽しい出来事を共有できたらって思う。


昨日は帰宅後、猫と戯れ夕飯食べた後、ゾンビっちを開けることなく朝まで眠った。
朝シャワーを浴びようとして、ふと気づく。


…もしかして、風邪悪化してる?


夜更かしもせずただただ眠りつづけたというのに、体調悪くなるなんて一体どうなってるんだろう?
いい加減嫌になってきそうだけど、よく眠ったおかげで頭はすっきりしているみたい。
思考がクリアなら、ひとまず何とかなるだろうと思いながら、出勤する。


外気は痛いほど冷えている。
ただ頭がすっきりしてる分、縮こまる感じがないのは嬉しい。
そう思っていられたのは、ほんの少しの間だったけれど…


思考がクリアであっても、思うことのすべてが上手く表現できる訳じゃないということに気づいたのは、朝メールを打ってた時。
心痛める友達に伝えたいと思ったことがあるのだけれど、携帯のキーを触る指がなかなか動かない。

伝えたいと思う気持ちがあれば、何を言っても許される訳ではないし、その想いを伝えられるとも限らない。
そもそもその言葉自体が相手に必要かどうかすらも判らない。
よかれと思うことのすべてが額面どおりに受け取られる訳でもなければ、それだけの作用を確実になす訳でもない。

心の中で想いと迷いが暫く綱引きをしていたけれど、思い切って想いを言葉に置き換えてみた。


ただ出会う物事を自分なりに受け止めて吸収できるだけの柔らかな心をなくして欲しくないなという想いだけを寒空に飛ばした。

尤も、その柔らかな心は私もなくしてはならないものなのだと思うけれど…


今日は洗濯当番。
電話機と書類と洗濯機の相手をしながら午前中を過ごす。
気持ちが仕事モードにかちんとはまった途端に洗濯の作業に戻らなければならないのが煩わしいけれど、事務所からは見ることの出来ない高い空を眺めることはいい気分転換になる。
高く澄んだ冷たい空に少しだけ背筋を伸ばしてもらって、事務所に戻る。


洗濯が終わってからはただただきりきりと仕事を片して昼休み。


昼休みも別の友達に送るメールの文面を考えながら、黙々とご飯を食べる。
携帯やパソコンを触りだすと、ボスのちゃちゃ入れが始まるから、ボスから隠れるようにして思考を巡らす。


友達の話は、ともすると私自身のことにも置き換わるような要素があって。
暫く友達の案件としてではなく、自分自身を見つめつづけていた。
それをそのまま言葉にしていいかどうかは判らなかったけれど、私から生まれた想いを私の言葉で置き換えたかったから。


大切な人を想う気持ちがありさえすれば、大切な人に想われる気持ちがありさえすれば。
すべてが結果や形として実を結ぶ訳じゃない。
それを知りながら、それでも想いの証として形をなせなければその想いが死んでしまうような気がしてならなくて、ずっとずっと必死になって走りつづけた。
大切な人への想いを守り、大切な人からの想いを守り。
それを形にすることですべてを得られるような気がしてた。


自分が欲しいと希う、たったひとつの暖かな場所を手に入れられると思ってた。


けれど、互いが形をなせなくても想いがあればいいのだと思えるのなら、別に結果や形をなさなくてもいいかという気もし始めてる。
それは決して想いの果てに結果がなくてもいいという意味ではない。
大切に想う人とずっと一緒に、やがては誰もが認めるような場所や関係を築きたいと願っていることには変わりはないけれど。


形をなせなくても、息づく想いは確かにあるのだから。
形々とがならないやり方もありかもしれない。
形をなせないから、想いは無駄なものなどと思わなくてもいいのだと。
誰にどうこう言われる筋合いすらないのだと。


…誰もに認めさせられる形にできないから、その関係そのものが違ってるなんて思わなくてもいんだよ?


相手にというよりも、自分にそれを言い聞かせるような言葉を綴って、窓越しの小さな空に向かってそっと飛ばした。

メールを送り終えた途端、ボスのちゃちゃ入れが激化し始めた。
風邪気らしく、ちょっと崩れた美声で一生懸命お話してこられる。
邪険にするにはあまりに申し訳ない気がして、昼からの仕事が始まるまでずっとボスのお話を聞いていた。


昼からの仕事は幾分緩やかな立ち上がりで、ボスがデスクのパソコンで操作難民状態に陥ってても、デスクの傍まで行って対処するだけの余裕はあった。

けれど、それが仇になったらしい。


…ボスの美声を崩す風邪をまるまんま頂いたらしい(>_<)


鼻水はひどくなるし、喉も頭も痛い。
私の悪声はさらなる悪声になっていく。
早く業務から開放されることを祈りながら、鼻をかみかみ仕事を続けた。

いつもなら定時に会社を出ると、どこへ寄って帰ろうかって一瞬でも考えるのだけれど、珍しくただただ家に帰りたいなと思った。


家に帰る道すがら、今日友達に送ったメールを何気なく読み返す。
確かに相手に宛てて言葉を選び、相手に送り届けたかった想いにほかならないのだけれど、そのメールの文面は自分自身にも宛てられてるもののようにも思える。
他人の状況と自分の状況を重ね合わせられるほど、精神的にも時間的にも余裕などあるはないのだけれど、自分自身に必要な言葉でもあるような気がしてならない。


誰かのことで思考を巡らし、言葉を紡ぐことですら、自分に返る何かがあるのかも知れない。


大切な人に宛てて綴る言葉は自分自身に宛てた手紙みたい。


なぜだか強くそう思った。


鎧う自分の解き方

2002年11月13日
昨日に引き続き、今日もそれほど寒くはない。
冬の空気は触れると心がまっすぐになりそうな感覚を覚えるけれど、間違いなく身体は縮こまるから、少なくとも会社に行かなければならない日には暖かいに越したことはないのかもしれない。


ここのところずっと心が縮こまった感じが抜け切らなくて。
いつもならぽかんとへこんでもすぐにまた元の状態に戻せていたのに、なかなか浮上し切れずにいてる。
その状態で人と接してると、咄嗟に鎧う部分がはっきりと顔を出す。
あまり面と向かって鎧う自分でいるのもどうかと思って、極力アウトゴーイングを装うけれど、気持ちを文字に置き換えてやりとりする人には鎧う私の姿がはっきり判るみたい。


さりげに友達に指摘されたことを心の中で反芻する。


私の警戒心はなさそうに見えて、実はかなり強いのかもしれない。
5年程前にあった出来事によって過度に人に心を預けないようにしようと強く思うようになってから、なるべく自分の中で結論が出ていないことは話さないようにしていたのだけど。

去年あたりからどうもそれが微妙に崩れてきてて、心の底にある澱の部分を人に見せてしまってる。


心に潜む闇の部分を見せてもいいよ、受け止めると心縛る鎖を片っ端から引きちぎろうとしてくれる人達に出会ってしまったから。

徐々にぽつぽつと話しては「あ、やるんじゃなかった」と思い直して、気持ちを塞ごうと思う頃には手遅れなんてことがぽつぽつ出てきて、「らしくない」って自己嫌悪に陥るけれど…


それでも心を鎧う姿勢は崩れるどころか、日増しに強くなってきてる気がする。


自分を受け止めてくれる人だっているのに。
いろいろありはしても心の傍には竜樹さんもいてくれるというのに。


二律相反的な事象が自分の中で鎮座して動こうとしない。
仕事をしていても、意識の底から消えてなくなることはなかった。


人を信じることですら自己責任だと思うから、何か起こった時怒りも悲しみもすべて自分の方に切っ先が向かう。
何か起こった時に他人に感情の刃を向けてしまえるような性質じゃないから、それは避けて通れない。

自分以外の誰かに向かう筈の感情でさえ自分に襲い掛かってきて、自らの心を少なからず傷つける。
その痛さは自分が信用すればするほど、心を預ければ預けるほど大きなものとなって跳ね返ってくるから。

だから未だに、必死になって鎧おうとする自分がいるんだろう。


神経質なまでの警戒心は傍にいる人達にいい感情は与えないし、自分では予測もつかないようななにかを遺してることもあるらしい。
私自身に自覚がないまま進行してる事態もあるから、あるいみ性質が悪い。
だから、過剰な部分の警戒心を解けるものなら解きたいと思うけれど…


心はまだ5年前のあの日からずっと、縛り付けられたままなのかもしれない。
「もう二度と人に心を預けすぎたりなんてするものか」と思った出来事は心の中にまだ棲みついている。


「なぁなぁなぁなぁ、金ちゃん!!o(^-^o)o(^-^)o(o^-^)o」


殆どしかめっ面状態な私に、にこやかに騒々しく声をかけるボス。
笑顔を振り撒く心境にはなれないけれど、ボスのトークは笑顔を引きずり戻す。
気がついたら、げたげた笑う怪しい社員が約1名。
傍から見ると、さぞやけったいな光景だろう。


「アウトゴーイングでさばさばし過ぎてて、性別間違って生まれてきたような…」


会社での私をボスはよくこんな風に言う。
アウトゴーイングでさばさばし過ぎてる人間は何時までも昔のことで心煩わしたりはしないのだろうし、私の思考回路はおおよそ(私が知り得る限りでの)男の人の思考回路からは程遠い。
会社の中では愛想はないけど、神経質からは程遠い人として見られてるんだろう。


けれど、ボスが私に声をかけるタイミングはどうも計算されてるような気がする。


塞ぎ込んでしまいそうな感情がすっと流れた時、ぱっと声がかかる。
その闇のような部分が大きければ大きいほど、アホな話ばかり振って来られてる気すらする。


…あぁ、なるほど。


ボスにはお見通しらしい。
(私も含めて)選りすぐりの大ボケちゃんやおバカちゃんばかりを採用してるようにしか見えないから、「この方、人を見る目ないんちゃうか」とかって思ってたけど。
多分、本当は神経質な部分を持ち合わせてることはお分かりなんだろう。


…上司に気を遣わせる部下なんてどうかと思うけど…(-_-;)


「わしは金ちゃんの『会社のお父さん』やでぇ♪(*^-^*)」というのは伊達やないらしい。
ついてないように見えても、私はよくよく人にはついてるらしい。


過剰な部分の警戒心や神経質さを解くのは他でもない自分自身だけど。
多分暴走するほどの過剰さには捕らわれずに済むかもしれない。


…何となくそれを解こうとしてくれる、優しい人達には恵まれてるようだしね。


いつか、目の前に転がっているいろんな案件がすべて片付いた時。
その時もまだ竜樹さんの隣に建っていられてたとして。
鎧う自分の解き方を判らずに過剰なまでの負の感情で竜樹さんを切りつけたりしないように。
大切に想う人を可能な限り傷つけないようにするために。


少しずつでいい。
過剰な鎧を解く方法を探し出そうと努力して、いつかは必要な時に必要なだけの鎧を纏う術を身に付けられるように。


信じられる誰かといることで、少しずつ心を開こうって思う。
今すぐにできなかったとしても。
何年かかったとしても。



思わぬご褒美タイム

2002年11月12日
朝、ふとしたことからちっさな刺が刺さったみたいな気分に陥った。
どこへ持って行くことの出来ない感情が自分の中で渦を巻いている状態。

外は薄曇で、昨日に比べると妙に暑く感じる。
それは私の体調が悪いからなのか、暖かいのに厚着してるからかはよく判らないけれど…


今日は朝メール拡大版。
ずれたチャット状態なメールのやり取りを遠くにいる友達と繰り広げていた。
行き場を失った感情の経緯を話したところで感情の行き先が見つかるわけではないけれど。
適度に誠実さは忘れずにいようねということだけを確認して、ずれたチャットのようなメールを終える。


心に刺さったちっさな刺のような引っ掛かりは消え去っては居ないけれど、今日は竜樹邸訪問。
しかも、越前蟹のごちそう付♪
何はともあれ笑顔で竜樹邸に辿り着けるよう、ほどほどに頑張ろうと決心して仕事に挑む。

昨日厄介な書類を片付けていたから、思ってたよりは楽に仕事を進められる。
それでも、電話は相変わらずちゃんちゃんちゃんちゃん鳴り響くし、アクシデントもちょろちょろとはあったのだけど。
「これが済んだら竜樹さんとカニ♪」を合言葉にきりきりと片付けていく。


そこそこ仕事も片し、そこそこの疲れ方で午前中の仕事を終える。
お弁当を開けると生姜焼き。
そんな些細なことを嬉しく思いながら、黙々とご飯を食べる。
お弁当を食べながら、ふと思いついたことを友達に話したくなってこちこちメールを打って飛ばし、昼休みの作業をする。


「おーーーい、金ちゃーん、ウシガエル唸ってるぞーーーー( ̄ー+ ̄)」


ボスの叫び声に慌てて台所を飛び出し、唸る携帯を掴んでまた台所に引き返す。
届いたお返事が楽しくて、無人の台所で少し笑ってしまった。
またお返事を打って事務所に戻り、風邪薬を飲んで昼からの仕事の準備をする。


カニと竜樹さんまであと数時間。
降り注ぐ仕事をきりきりきりと片付ける。
ボスのちゃちゃ入れもそこそこに、しつこくなってきたらばっさりと片付けて、定時ダッシュを目指しつづける。

きりきり頑張ったからか、業務以外のことを極力切り捨てたからか、定時に事務所を飛び出して一路竜樹邸を目指す。


自転車をかっとばしホームに滑り込んできた電車に飛び乗る。
ちょっとあがりかけた息を抑えながら窓の外を眺めていると鞄が揺れる。


…友達からカニメールが届いていた(*^_^*)


再びずれたチャット状態なメールを飛ばしながら移動を繰り返す。
混み混みの電車に混み混みのバスを乗り継いで、交通機関の移動の旅が終わる。
昨日竜樹さんと電話で話した時に「カニを食べたらお酒が欲しくなるやろうから、飲むんやったら持っておいで♪」と言われたので、近所の酒屋で発泡日本酒を調達して竜樹低に向かう。

竜樹邸のドアを開けると、竜樹邸は磯の香りがした。


「お疲れ♪ちょうどカニが焼けたとこやで(*^_^*)」


食卓に行くと見る色よく焼けたカニの足とサザエが並んでいる。
おまけに、鮭の切り身まで焼いてある(o^−^o)


「さぁ、食べやぁ♪」


竜樹さんに勧められるまま、念願のカニを食べはじめる。

カニの身はしっかりしてて美味しいし、紹興酒を入れて焼いたサザエは何とも風味がいい。
ただただ静かに黙々とカニをせせり、サザエを食す。
箸休めに鮭を食べ、またカニやサザエを食べる。

あまりに黙々とカニをせせってると、竜樹さんがちょっかいをお出しになる。
それでもまだ黙々と食べ続ける私を、ちょっと寂しそうにでもとてもにこにこと眺めていてくれた竜樹さん。

会話もせず黙々と食べるのもどうかなと思ったので、買ってきた発泡日本酒を開ける。
発泡日本酒はやたら甘くてちょっと考えてしまったけれど、味見程度に飲んだ竜樹さんはこれでよかったらしい。
「甘いの、ええやん(*^_^*)」とほにゃっと笑う竜樹さんの笑顔が愛しくてたまらない。


黙々とカニをせせり、黙々とサザエを食べた後、鮭が少しばかり残りました。
竜樹さんは台所に行って、小さなどんぶりにご飯をつぎ、お中元に贈ったとこわか(昆布)と鮭の切り身の残りをぽこぽこと放り込み、上からアツアツのお茶を流し込む。


「最後はとこわか鮭茶漬けで〆ると、いいと思って♪(o^−^o)」


食べてみると、とても美味しい。
新鮮なカニとサザエという磯の味を締めくくりは、しみじみとしたいい味のお茶漬け。
大満足の金岡霄。

私が黙々と食べてたのが珍しいと感心しきりの竜樹さん。
私は私で至れり尽くせりの竜樹さんに感謝感激雨あられ状態。
顔を見合わせては、笑顔で見詰め合う。


美味しいご飯を食べ終わり、ひと息ついてから片付けて。
リビングでお茶を飲んでいると、そっと触れてくる竜樹さん。


…カニを食べてる時は無視してもたもんね(^^ゞ


美味しいものを食べさせてくれた上に柔らかな笑顔でいてくれた竜樹さんに何かを返したくて、そっと抱きしめる。
抱きしめあうことに熱が帯びてくると、収拾がつかなくなるのは毎度のことで…
ただ互いが互いの熱を確認するように、ずっとずっと抱きしめあった。


もっともっとゆっくりしていたかったけれど、週末まではまだ遠いから。
名残惜しいのはお互い様だけど、自宅へ戻ることにした。


「今日は身体の状態マシやから、送って行くわ」


最後まで至れり尽くせりの竜樹さんに甘える形になってしまった。
申し訳ないという気持ちは勿論あるのだけど、少しでも長く一緒にいられることが嬉しくて、笑顔がとまらない。
そんな私に柔らかな笑顔を返してくれる竜樹さん。


本当に甘くて暖かくて優しい時間。


竜樹父さんの北陸土産は思わぬご褒美タイムを齎してくれた。
美味しいものをお土産にしてくれた竜樹父さんに感謝。
私のために至れり尽せりで頑張ってくれた竜樹さんに感謝。


美味しいものを大好きな人と一緒に味わえた、そんな時間に感謝。



焦燥感の向こう

2002年11月11日
昨日は1日ゆっくり過ごし、友達とメールで話したり電話で話したりして楽しい時間も過ごした。
楽しい会話の後に楽しみにしてる企画のための調べものをしてると、ちょっと惑うことは出てきたんだけれど。

それでも気分も機嫌も良く眠ったというのに、ずっと身体から眠気が抜けない。
どんどろりと起き上がり、のたのたと用意をして出かける。


ペールブルーの空の下は妙に寒い空気が渦巻く。
こんなに寒いと竜樹さんの体調は安定してくれなくなるので困るんだけれど…

どうしたらいいのかについてちっさい頭で一生懸命考えてみても、その答は思考の渦からうんと遠いところにしか存在しない。
というよりも、答自体が存在するのかどうかすら判らない。

今の私自身が割と不安定な状態を繰り返す傾向があるので、すぐさま前向きなる姿勢を確立することもままならないだろうけれど…

闇雲に動き回ったところで望む答が手に入る訳じゃないけれど、じっとせざるを得なくても確実に何か掴める状態ではありたいから。
なるだけ前向きな状態でいろんなものを見つめていたいと思う。


社屋に入ると憂鬱さは一気に加速していくのがよく判る。
今にも逃げ出したくなるけれど、「あと5回ここへ来たらお休みだから」と自分自身に言い聞かせて、仕事に臨んだ。

朝のフローを片すべく別フロアに届く書類を貰いに行く前に、親会社から渡されてる書類の確認作業をしなければならない。
こないだからざっと計算はしてみてるのだけれど、すごい数字のズレが生じてることだけは確か。

その処理の仕方がまたややこしいので、本当ならずっと放っておいてしまいたくはなるけれど、放っておいたらきっと書類の督促で追っかけまわされるんだろう。


…一度、放り出してみようかな?


できるはずもないよな途方もない誘惑を横に押しやり、黙々とケタはずれにおかしい数字の検証作業に取り組む。

おかしな数字の検証作業は難航し、朝のフローに差し障りが出るかと思うとイライラしてくる。
イライラしてくると、不思議と原因は目の前から消えうせる。

何度も何度もイライラとチェックを重ねてみて、原因を掴めばなんてことなかった。


親会社の中の連絡が不十分すぎるだけだってことがよくよく判った(-_-メ)


朝のフローに必要な書類を引き取りがてら、親会社につき返す書類を抱えて階下に降りる。

階段から吹き上がる風が冷たくて、書類チェックで縮こまった身体はよけいに縮こまる感じ。
かくかくと歩き、書類を受け渡しして、またかくかくと階段を上る。
その姿があまりに元気がなかったらしく、ボスに「しっかりしょーぜぇヾ(^○^)」と檄を飛ばされた(-_-;)

他の作業はそれほど大変じゃなかったけれど、ただただルーズチックな親会社のあさって向いた書類の推敲にどっと疲れてしまった。


時々やってくるアクシデントを除いてはそれほどしんどい業務内容ではないはずだったけれど、朝の書類検証の疲れが尾を引いたのだろう。

事務所を出る頃にはぐったりしていた。

外に出ると、雨がぱらついている。
「どこまでついてないなぁ」と嘆きたくなるような気持ちのままで、よろよろと駅まで向かい、電車に乗る。


竜樹さんがどうしてるか気になって、メールをひとつ飛ばす。


「昼は冷えたけど、だいじょぶ?
私は数字あわせに疲れてもた。
雨までパラつくし、なんだかだわ(-_-;)

…ところで、小旅行の宿泊先、迷ってるのよ。
詳細はまたのちほど」


一度にいろんな用件を盛り込むと、話題散乱気味のメールになって読みにくいだろうと思いながらも、つい話題を盛り込みすぎた状態でメールを飛ばしてしまう。
竜樹さんの体調が落ち着いていたら、その状態からでもお返事はくるし、どれだけ端的に纏めててもお返事が来ない時は来ないから。

身体がしんどいと思考も引きずられるようにして下向きになるから、極力ひとつのことを深く掘り下げすぎて考えないようにしたかった。


家での用事が済んで、自室でぼけっとしてると竜樹さんから電話が入る。
ちょっとご機嫌なご様子なので訳を聞いてみると、今日の夕飯が美味しかったらしい。
先週末竜樹父さんが北陸に旅行に出られてそのお土産にカニを持って帰ってこられたそう。


「新鮮やし、身が詰まってるから焼き蟹にしたらすんごい美味しいねん♪」


表情こそ見えないけれど、とても機嫌がよいのは受話器越しでもよく判る。
本場のカニが食べれていいなぁって思ってると、「多くて食べ切れなかったから、明日食べにおいで♪」と言ってもらえた。


「仕事の後やったら、しんどいかぁ?」
「いーや、行きます行きます行きます行きます!o(^-^o)o(^-^)o(o^-^)o」
「そんなに言わなくても、カニは逃げへんから…(^-^;」


すっかりいじましい人だと思われるような返事を高らかにしてしまった(^^ゞ


…カニも楽しみだけど、週の途中で竜樹さんに会えるのが嬉しいんだってば


あの返事からじゃ、その想いが伝わることなどありはしないだろうけど(爆)
カニ話で盛り上がり、そのまま電話は終わるかと思ったけれど…


「…あ、宿泊先の話、どないしたんや?」


「詳細はまた後ほど」などと言っておきながら、その話をどこかへ落っことしてしまってた。

昨日の夜ネットで調べて判ったことをそのまま竜樹さんに伝える。
例年といろんなことが違ってきてるので、宿泊先を変えてよりお得感のあるプランに乗っかるか、それとも違う方法を考えるか、私一人では決めかねたことも話した。


いろんな条件を提示しようと頭の中で整理しながら話そうとしていると、


「いつも通りにしょうやぁ」


一言竜樹さんはそう仰った。
このご時世なんで、なるべくお得感のあるものを見つけ出す方がいいだろうって頭が強かったから、そのお返事にちょっとびっくりしたけれど。


「いいんですか?他の条件聞かなくても」
「ええねん、毎年それで悪かったことはないやろ?
俺は変えない方がいいと思うから」


意外なまでにあっさりと今年の神戸小旅行の段取りは決まってしまった。
あとは宿泊先を予約して、有給を取得する準備に入るだけ。


いろんなことに思いを廻らし、常にどうしたらいいかを考え出すとその思考は渦を巻くようになる。
それが何となく自分の中で調和が取れなくなってくると、思考は迷走するし、結論は渦の底に潜んでしまって、一人いらいらしがちなのだけれど…


何気なく、すっとその焦燥感から抜け出せる瞬間はある。


何が焦燥感を払うかのかは判らないけれど、ふっと青空に出会えたような気持ちになることは間違いなくあるんだ。


…カニが焦燥感を掃ったとは思えないけれど


ずっと引っかかり引っかかりした1日の最後は、妙にすっきりした気持ち。
焦燥感に引きずりまわされた感じが拭えなかったけれど、投げずにいてればいつかは出逢えるのかもしれない。


焦燥感の向こうにあるのは、青空のようなクリアな気持ち。
1日の終わりに何気なく気づけたことが何だか嬉しかった。


Private Heaven

2002年11月10日
すき焼き大会の翌日は、ゆったりしたペース。
ゆっくり眠って起き上がり、お昼ご飯を用意して後片付けした後は自室に入り浸りの猫と休息の時間。

パソコンに向かって作業をしようと思うけれど、「構えー構えー」と擦り寄る猫には勝てなくて。
お布団の上に猫を乗せて、窓越しの空を眺めながら猫と戯れる。


…ふと、思い出した。


昨日お友達が結婚したってこと。
まだお目にかかったことはないのだけれど、暖かな心を持つ人なのは何度かやり取りした中で感じ取れてる。
お友達が大勢いる方なので、まさか私のことを心に留めていてくれてはるだろうなんて重いもしなくて。
心が迷子になりそうな時、そっと声をかけてくれたことで自分を見ていてくれてたことを知って随分驚いたんだ。


いろんなことがあって泣いたり笑ったりを繰り返しても、最後は笑顔で一緒にいられること。
私自身が見つめつづける「いつか」の話を現実のものとして手に入れられたこと。
それがただ嬉しい。
彼女の辿り着く未来と私の辿り着くだろう未来が違うものであったとしても、自分の心に幸せなる未来を、いつか手に入れたいと思っていること。

届くかどうかは判らないけれど、小さなカードに想いを託してそっと流した。


そうしてまた猫と戯れ、窓越しの空を眺めて思いを馳せる。


私と竜樹さんの行く手にあるものは決して暖かなものばかりではなくて。
困難も心揺らす案件もそこいらじゅうに散らばっていて。
ころばないよう手を離さないよう、ゆっくり散らばったものを片付け歩くのに追われてる。
それがいつまで続くかは判らない。
もしかしたら困難や負の方に揺れる心に負けるかもしれない。


それは私だけじゃなくて、竜樹さんにも言えてること。


今の私と竜樹さんの想いを疑ってるわけではなく、冷静に見つめてみればその可能性がないとは言い切れないという状態であるには変わりはない。


笑顔で迎える明日が来るのか、さよならの明日が来るのかすら判らないけれど。


それでも、互いが互いを想い合い、笑顔で来るべき日を迎えられるかもしれないなら、まだ頑張れる気はするし、頑張りたいと思う。


いろんなものを越えて、晴れて一緒にいられるようになった友達に続けるかどうかは判らなくても、なりたい姿に近づきたいから。


竜樹さんの笑顔は私のもの。
私の笑顔は竜樹さんのもの。
暖かな笑顔を育んで、互いを慈しんで、やがては辿り着きたいと願う場所に辿り着きたい。


ネットの海で出会った大切な友達の幸せに触れて、心の中にある大切な場所に思いを馳せる。


その場所は私だけの天国のような場所。
竜樹さんと私が笑顔で触れ合う、そんな場所に辿り着きたいと強く強く願う。


ネットの海で出会った友達の幸せに触れて、いつか辿り着きたい場所にきちんと辿り着けるような自分でありたいって想いに出逢えたような気がした。


今日は休みの日にしては早く目が覚めた。
いつもならもう一度寝直すし、体はそれを要求するけれど、何だかそうしててはならない気がして起き上がる。
ぼけっと散らかり方がひどいところを片付けたり、ちょこっと雑用をして階下に降りる。


部屋の前でプードルさんがため息交じりで部屋の前で横たわってる。
「どしたのかな?」と思って眺めると、金岡母がダウンしてた。
聞くと何も食べていないということなので、可能な限りのことをしておく。
薬を飲む前に簡単に食べれるものを用意し、金岡父に後のことを頼んでおいた。
リビングでの作業がひと段落して、自室に戻ると携帯に着信がひとつ。


「どないしたのん?」とだけ打って、青空に飛ばした。


折り返し竜樹さんから連絡が入り、私の家までは迎えにいけないけれど、いつも待ち合わせしてる駅までなら迎えにいけそうだからということで、待ち合わせ場所と時間を決めて電話を切る。
ダウンしてる母の様子を時々見ながら用意をして、昨日買った食材を抱えて家を出た。


重い食材を提げてふらふらと坂道を降り、途中の薬局でストックを切らしている風邪薬を調達。
そうこうしてるうちに乗るつもりだった電車が出てしまった。
このままでは恒例の10分遅れコースになってしまうので、事情を説明し何分くらいにつくかを知らせるメールを飛ばす。
ゆっくりことやってきた後続の電車に飛び乗り、流れ行く景色をいらいらと眺めていた。

気持ちばかり焦ってる時ほど、乗り物がゆっくり走ってるような気がしてならない時はないものだなぁとヘンに感心した部分もあったけれど…


待ち合わせ場所に近づいた頃、竜樹さんから居場所を知らせるメールが届く。
その場所を頭に思い描きながら、待ち合わせ場所の最寄駅に着いた途端脱兎の如く改札を出る。

待ち合わせ場所にはちょっとしんどそうだけど、柔らかい笑顔の竜樹さんがいた。


「朝から大変やったなぁヾ(*^-^*)
その食材、まさか家から持ってきたんか?」
「そですよ。多分買出ししてる時間がない気がしてたから…」
「ようそんな重いの持って、家まで迎えに行ったらよかったなぁ」


会話を交わしながら、竜樹邸に向かう。
週末の道路は混んでいたけれど、竜樹さんがさほどしんどくならないうちに竜樹邸に辿り着けたのはありがたかった。


よろよろと竜樹邸に食材を運び入れ、冷蔵庫に片付けていく。
冷蔵庫に食材を入れながら余ってる食材を物色し、簡単なお昼ご飯を作る。

竜樹邸がそうなのか、それとも今日はどこに言っても冷え込むのか。
食事を摂った後、竜樹さんは少し体調を崩されたよう。
何気なく触れる手も少し力がなくて、不安がよぎる。


「…ホントはなぁ、ガスレンジを買いに行きたかったんや。
霄が料理すること多いから、使いやすそうなん一緒に選んでもらおうって思ってたのに…」


具合が悪いからだけじゃなく、なんだかとても残念そうに話す竜樹さん。


「元気な時でいいじゃないですか?」
「…ん、でも、出かけたいやろ?せっかくの休みやねんし…」
「私は家にいるのも好きですよ。
それよっか、今休んどかないと夜のすき焼きパーティも流れちゃいますよ?」
「…そやなぁ」


竜樹さんが触れるまま、私もその場にぼんやりと座り込んでいた。
竜樹さんが休んでる時は好きなことをしてていいよと言われるけれど、テレビをつけると起こしてしまいそうだし、竜樹邸に来てまでパソコンを触る気にもなれない。
携帯を触るのもどうかという気がして、新聞を読んだり片付けたりして過ごす。

それでも何となく時間が余ってしまって、夜のすき焼き用の材料を先に用意しておこうと、台所へ移動して、作業を始める。


…作業たって、材料を切るだけなんだけど(^-^;


簡単な作業なので当然のように時間は余り、ぼーっとしてるうちに私も少しだけ眠ってしまってた。
目が覚めると、あたりが暗くなっててびっくりした。

ぼんやりした頭で、ちょっと考える。
竜樹邸ですき焼きをするのに必要なもので、まだ調達し損ねてるものがある。


…それはビール


竜樹さんはお酒がそれほど強い訳でもないし、私もビールは好んで飲まない。
飲むためにビールが必要なのではなく、すき焼きの割り下に使うそう。
金岡家ではすき焼きの割り下は醤油と砂糖と水を使うけれど、竜樹家では水の代わりにビールを使う。
すき焼きをする度に面食らうのは私だけなのかどうかは定かではないけれど、竜樹さん曰く「割り下が薄まらず、牛肉も柔らかくなるからいいのだ」とのこと。


…確かに、アルコールは飛んでるから酔いはしないけどね(;^_^A


家庭によって味付けの仕方は違うのだと感心してしまうのだけれど。
兎にも角にもビールがないと具合が悪いので、竜樹さんに買出しに行く旨を伝えて、外へ出る。


頬に当たる風は冷たくて、一気に目が覚める。


とことこと歩きお酒屋さんに行き、ビールを買ってまわれ右。
途中の自販機で目覚ましコーヒーを買い、それで暖を取りながら竜樹邸に引き返す。
竜樹邸に入ると、すっかり張り切り屋さんになってる竜樹さんがいた。

張り切り屋竜樹さんと食卓のセッティングをして、ご実家に「一緒に食べましょう」コールをしたけれど、竜樹母さんはおうちで竜樹父さんの帰りを待ちたいとのことでメンバーの増減はなし。


2人だけのすき焼きパーティーのはじまりはじまり。


熱した鉄鍋にラードを引き、肉を焼いて色が変わった頃にビールと醤油と砂糖を投入。


「強火でアルコール飛ばすんやで」


すでに、鍋奉行状態の竜樹さん。
私は奉行に従って、黙々と食材を鍋に入れては待つ。
けれど、このお奉行さまは仕切るだけじゃなくて、食べ頃食材を私の取り皿まで運んでもくれる親鳥のような人。
だんだん私は鍋に入れる作業から、ただひたすら食べる人に代わっていった。

最初に切った野菜だけでは足りず、追加で野菜を切って運んでまた鍋で煮て…


…2人とも、「暫くはすき焼きは食べたくないぞ」状態になってしまった


それでも、竜樹さんは希望が叶って終始ご機嫌さん。
ご機嫌さん状態から、ちょっと「あれー?」な方向に移行したのは問題だったけれど…


美味しい食事と甘い時間を沢山堪能して、2人とも笑顔が絶えない。


以前に比べたら格段に元気になった竜樹さん。
寒さが厳しくなると具合が悪くなることを思うと、まだ考えなきゃならないこともしないとならないことも沢山あるけれど。

今まで以上に前向きになってる竜樹さんを見ると、大丈夫なのかな?という気はする。


寒く辛い時期があるからこそ、暖かく愛しい時間を知る。
寒くて辛い時期などなければないに越したことはないと思うけれど、それでも辛いことの先には暖かな時間はきっとあるから。


暖かくて愛しい時間をできるだけたくさん竜樹さんと過ごしたいって思う。


そこへ辿り着くまでの道程が辛いものであったとしても…

穏やかな心から…

2002年11月8日
昨日は帰宅後体調不良がピークで何もせずに眠った。
なのに、起きてもどこか身体にはだるさが残る。
窓の外は雨がぱらついている。
それだけで何となく気分が沈んでいく。


傘を持って出たものの、電車に乗って移動を繰り返していると、雨は降っているのかやんでいるのかよく判らない感じ。
この時期雨が降ると気温が下がるから、ますます面白くない。


…気温が下がると、竜樹さんの身体には堪えるから


すっきりしない気分のまま社屋に入る。


仕事は立ち上がりから割とのんびりした展開。
先輩に足止めを食らっても、それがさほどフローに影響しないのが救いだ。
あまりのったりこのったりこと仕事してると、不意の仕事がやってきた時ろくでもない目に遭うので、注意しながら仕事を進める。


それは杞憂に終わったようで、午前中はのんびりしたまま終わる。
昼休みもお茶煎れの作業と後片付け以外はのんびりペース。
なぜなら、ボスが終日お留守だから。
社長のお茶を入れ替えると、昼からのために体力温存。
5分くらい前から次の作業の準備に入ることで戦闘モードを高めていくのだけれど、どうも今日はその必要がなかったらしい。


終始、のんびりこなペースで終わってしまった。


必要以上に体力を消耗しないのは、ただただありがたくて。
そんな日の方が珍しいから、妙に機嫌がよい。
おまけに、外に出ると思っていたほど寒くはなかった。
雨が降った後にしては珍しい。
明日は小さなイベントを竜樹邸でしようと話していたので、その準備のために寄り道して買い物して帰ることにした。

電車に乗る前にメールを飛ばす。


「元気かな?
今日は比較的暖かい気がするけど、気のせいかな?
今日はほどほどでした。
明日のすき焼きパーティにむけて、元気をたくわえます(笑)」


ホームに滑り込んできた電車に乗り、買い物ツアーに出かける。
買い物ツアーと言っても、ただの食材の買出しでしかないのだけれど、明日のことを思うと気持ちは弾む。


店によって食材の得意分野は違う。
いい魚を置いてる店、いい肉を置いてる店、いい野菜を置いてる店。
それがてんでバラバラなんで疲れのリミッターが振り切れるといーーーっとなるけれど、機嫌がいいのも手伝って食材を提げてお店のはしご。


明日の夜は竜樹さんたっての希望ですき焼きパーティの食材。
買うものをチェックしながら、目の前にある食材の状態をチェックしながら、籠に食材をぽこぽこ放り込んでは、レジで精算。

帰る頃には、少し疲れてしまったけれど。


自分のいる場所も自分自身も穏やかな状態で週末を迎えるのは久しぶり。
変化のない状態にいらいらすることもなく、静かに週末を迎えることが妙に新鮮でならない。


こんな穏やかな状態で、明日もいられますように。
穏やかな心から竜樹さんに笑顔を渡せますように…

記憶の上書き

2002年11月7日
先週末も会社を休んだというのに、今日もまた会社を休む。
今日は相棒と劇団四季のCATSを観に行く。


…こんなん続けてたら、いい加減会社クビなる気がするけど(^-^;


それは置いといて、どうにもこうにも熱っぽいのが治まらない。
体調の異変に気づいたのが待ち合わせの時間よりかなり前に気だったので、待たせすぎないよう連絡は入れておいた。


それでも、本当は外出するのが少し辛い。
チケットは私が持ったままだから、行かない訳にはいかない。
重い身体を無理矢理起こして、用意をして出かける。


最初の約束よりだいぶ遅れてしまったけれど、相棒も急な用事が入ったりで待ち合わせ場所で待つ時間はそう長くなかったと聞いてひと安心。
劇場に入る前に食事をしようと、街を歩く。


「久しぶりにパスタが食べたい」という相棒のお言葉に従って、パスタ屋さんへ行く。
丁度昼前だったので、待ち時間も殆どなく店に入る。


「毎度毎度ここに来ると悩むんだよね〜」


変わったパスタメニューを単品で取るか、2倍楽しめるセットを取るか。
2人とも毎回迷う。
結局今日もまたお得感に引きずられてしまった私と相棒。
それにサラダを取って、ランチタイム。


相棒との話は近況報告から宝塚歌劇の話、果ては料理の話にまで発展。
私と相棒のペースに第三者を放り込むと、放り込まれた人がきっと訳がわからなくなるくらいに話題はぼんぼん流れていく。
この店にご飯を食べに来たのか、喋りに来たのかどっちやねん!?というような状態。
そろそろ移動しなきゃならない状態になって、慌てて店を出る。


電車に乗ってごとごとごとごと。
大阪城公園なんて来たの何年ぶりだろう?
記憶を掘り起こす暇がないほどに、相変わらず相棒はマシンガントークかましてくれる。

それがCATSって演目の底にある、思い起こすと気持ちが重くなるような記憶を引きずり起こさずに済んでるのかもしれない…


今回の観劇は、CATSの大阪公演は来年の1月で最終になるので是非観たいのだという相棒の意志に沿って決まったもの。
私は10年程前に一度観てしまってたのでどうしようか迷ったのだけど、舞台を観る分にはいいかと思った。

相棒となら10年前に観劇した時のメンバーのことなど思い出さずに済むかもしれないと思ったから。


CATS専用の劇場は10年前に難波の球場跡のハコとはちょっと違った印象。


「このハコ、ちっさい気がする」


ハコが小さいということは、臨場感は以前のものよりあるのかも知れない。
舞台が始まる前からちょっと楽しみにしてみたり。
うろ覚えの記憶を辿りながら相棒と話し込んでるうちに、開演時間が迫ってくる。


会場内の灯りが落ち、舞台が始まる。
1年に一度、猫たちの中から再生を許される猫が選ばれ、選ばれた猫は天上に上り新たな命を得られる。
自分が選ばれればいいのにと、どきどきしながら待つ猫。
今の生き様と思い出を語る猫。
そんな猫たちがところ狭しと走り回り歌い踊る光景は10年前と多分変わらない。

ただあの時は1階で見ていたせいもあって、ちょっと感じが違う。

張りの通路からふっと消えたかと思うと2階席まで上がってきて走り回る猫たちの姿はあの当時の記憶にはない。
猫たちのエピソードにも「こんなのあったっけ?」と思うところが何箇所かある。


ストーリー展開はほぼ記憶どおり。
細部がぽろぽろ抜けてる分、一人新鮮な気分で見ていた。
記憶と目の前を走る現実とを行き来してるうちに、前半が終わった。


「インターミッションの間、役者さんが舞台に残ってお客さんにサインしたりしててんよ。
今はどなんやろ?」


舞台が始まる前、そんな話をしていたのだけど、10年前と変わることなくオールドデュトロミー(猫たちの長老)役の人が一人舞台の上に残ってる。
そこへお客さんが列をなしている。


「あー、やっぱりあのファンサービスは残っててんやー」
「私、あの速水奨さんばりの声の猫さんやったら貰いに行ってんけどなぁ(*^-^*)」


相棒はちょっとマニアックなことを口走ってる。


休憩時間中、行列には参加せず2人で会場内をお散歩。
サインを求める人の列は階段付近まで延びている。


「これは今から並んでも後半始まるまでに終わらないだろうね」
「前もこんなやった?」
「前は舞台に残る人が3人くらいおったからなぁ…」


プログラムを買い、席に戻ってから後半が始まるまで、ずっと舞台の話ばかりしていた。


後半が始まって、また薄れかけてる記憶を新しい場面で補っていく。
話の流れは多分違わないだろうけど、10年前と何が違うのだろうか?
それを確認できる人は傍にいない。


…いや、彼女が傍にいない方が今の私にはいいのだろう。


ぼんやりとまた舞台を眺めている。
CATSでかかるナンバーは宝塚でも他所の舞台でも結構歌われることが多くて、タイトルこそうろ覚えでも聞き覚えのあるものが殆ど。


「あ、これはマミちゃんのショーでも歌われてたヤツだ」


10年前の舞台ではなく、他所の舞台の記憶ばかりが掠める。
それは半ば自己防衛のひとつなのかもしれないけれど…
今目の前にあるCATSは記憶や心にセロハンが1枚挟まれたような感じに見える。


複雑な感じに心捕らわれそうになると、舞台は転調する。
舞台で飛び回る猫さんの跳躍力に驚いたり、ちょっとした仕掛けがどうやってなされてるのかを考えたり。
張りを抜けて2階席までやってくる猫さんたちに笑顔を貰い、いつのまにか心捕らわれるものは完全に押しのけられる。


そうして、舞台は幕を下ろす。


何回も続くアンコールとカーテンコールを繰り返し、笑顔で外に出る。


「…キャスト表は欲しいよね?」
「そうそう、どの人がどの猫やったのか知りたいもんなぁ」
「四季フリークやないと、判らへんもんなぁ…」

「やっぱり音はオケの音がいいよね」
「最近シンセ系の音が多いから、管楽器の生演聞きたいって思うねん」


そんな風に今日の舞台のあれこれを話してるうちに、最近の宝塚や他の劇団の話に及ぶ。
ともすると、熱狂的なファンに刺されかねないなぁとびくびくする場面もあったけれど、終始舞台一色な会話を堪能。


それもまた、10年前にはなかった姿かもしれない。


その後また電車に揺られ、お茶する店を捜し歩いてひと息ついて。
落ち着いたかと思うと、会話は留まるところを知らず。
身体はしんどいはずなのに、いつまでも笑いつづけていた。


思い出したくない記憶やそれに結びつきそうな場所や出来事。
それを封印したり別の記憶で上書きしたりは出来ないって思ってる。
いい出来事も忘れてしまいたいような出来事も、自分を作り上げてるもののかけらには違いないから。
嫌な出来事を新たな出来事で上書きする必要はないと思ってる。


それでも…


嫌な出来事の記憶に辿り着きそうなものに敢えて寄り付こうとは思わない。
それが新たな悲しみや憤りを齎すのなら、二度とは触れたくないとも思う。
だから、未だに誰とでも行きたくないと思う場所はある。
たとえそれが竜樹さんであっても、したくないことや行きたくないと思うことはある。

けれど、「もう一度CATSを観よう」と言われてももう心が曇ることはない。


そういう意味では、相棒は私の記憶をきれいに上書きしてしまったのかもしれない。


悪しき記憶が楽しい記憶で上書きされるなら、それもいいのかなと思う。
記憶の上書きは逃げの証しかもしれないけれど、そうすることで大切な人に無用の傷を与えないのなら。


それはそれでいいのだと思う。

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