今日は竜樹邸に行く日、だけど魔境に厄介な方が来られる日。
先週は仕事にかまけて放っておいてもよかったけれど、係長様にも私にも放りぱなしにされてた分、どして坊やのように質問攻めに遭うのかと思うとげんなりしてくる。
「これもあと数ヶ月の辛抱」と無理矢理言い聞かせつつ、今日はなるべく足止めを食らわされないように気をつけなきゃと思いながら魔境に入る。

午前中は厄介なお客様に捕まることは殆どなかった代わりに、親会社から処理の難しい書類が届いた。
目を通しただけで、処理が困難を極めるだろうことが予想できただけにさらにげんなり。
どんどんテンションが下がっていく中で、ひとりハイテンションに喋り捲る先輩の声だけが静かなフロアに響き渡る。

話の流れから仕事の適正の話に及んだ時、「仕事の量は多くていいから、無駄に喋らなくていい仕事がいいです」とばっさり言い切ってしまった。
先輩の無駄話の多さは言うに及ばず、案件処理の都合上親会社の人とやり取りをするのだけど、どの人をとっても無駄話が多い。
その無駄話に付き合うのも仕事だからある程度は仕方ないと思いつつ、急ぎの案件が5,6件重なってくるとその5,6件分無駄話が続くのでイヤになってくる。
転職することになったら、出来るだけ無駄話をしなくてもいい部署に行きたいななんて到底ありえなさそうなことを考えたりする始末。

…あ、しまった。

「無駄話が煩わしい」と言えば、先輩が今こうして喋り捲ってるのも該当する。
「いくらなんでもこれは言い過ぎ?」と思ってると、先輩一言。

「そっかぁ、ねぇやんは職人さんみたいな仕事がええねんなぁ♪
アニメーターとか原画描く人みたいな(*^-^*)」

言ったことに突っかかってこられなかったことを感謝しつつ、軽い脱力感を覚えながら先輩の話が切れるのを待ち、事務所に戻り午前中の仕事を片付け始める。
放課後会えるだろう竜樹さんの笑顔を常に心の中に置きながら…

午前午後共いろいろありはしたけれど、どうにか今日の仕事を積み残すこともなく社屋を後にした。

この時間の空模様は可もなく不可もなくといった感じだけれど、夜から雨が降るらしい。
竜樹さんの不調は雨降り前のものだろうと思うけれど、ここ数日の様子を振り返るとそれだけのものとも思えなくてあれこれと考えてしまう。
思考を巡らせぼんやりと車窓を流れる風景を眺めながら竜樹邸を目指した。

「…来てくれてありがとうなぁ」

竜樹さんからの第一声はあまりに弱い感じのもので、胸がちくんと痛む。
それでも一緒になって声を落としても仕方がないからと、ひとまず竜樹さんが落ち着いて休めるよう、暫く傍にいる。

記憶の中にある雨降り前の不調の姿に合致する部分は多く、どうしたらいいかある程度は判るのだけど、気象条件云々以前に恒常的な痛みが呼び起こす不安に苛まれてるという印象の方が強い。

「…こんな時はどうしたらよかったんやったっけ?」
「食事が取れるまで暫く横になって、食べれるようになったらお薬飲むしかないですね。
ただ気分的にリラックスしてへんみたいやから、竜樹さんが思ってることを気が済むまで話してくれたらいいですよ?」

竜樹邸にいられる時間が限られてる以上悠長に過ごしてる訳にもいかない。
けれど、物理的に何かをするよりもひとまず痛みからくる不安を取っ払って帰る方が今回はいいような気がして、頭の中で物理的作業に割ける時間を割り振っていきつつ、竜樹さんの表情に安堵の色が見えるまでくっついてずっと会話を続けていた。

ようやく竜樹さんが落ち着いてきたので、介護士さんが作って帰られたご飯を食べるのを手伝ったり後片付けやお風呂の用意をしたりして、自分がいられる時間に出来る精一杯のことをしようと少しばかり頑張ってみた。

…頑張ったといっても、ストックが切れていた刻みネギときつねあげを作る時間を取り損ねてしまったけれど(-_-;)

そろそろバスに乗るために竜樹邸を後にしなければならない時間になる。
幾許かの安心を取り戻した竜樹さん、今度は私が帰るのが嫌みたいで珍しく甘えてこられる。

「バスの時間間に合わなくなるよ…」
「今日はタクシー乗って帰り?今から天気も悪くなるし、楽に帰れるやろ?」
「…や、あんまり無駄遣いしたらあかへんやん」

口ではそう言ってるけれど別に好き好んで自宅に戻りたい訳ではなく、ましてや滅多に甘えてこない竜樹さんが甘えてくるならそれを受け止めてたいとも思う。

暫くふたりでくっついてると外からは雨の音。
タクシーを手配するから長い間竜樹邸にいられるとはいえ、雨の日はタクシーがなかなか捕まらないのがお約束なので、仕方なくタクシーを手配して帰り支度を始める。

竜樹さんの体から痛みはまだ抜けてはいないようで辛そうではあるけれど、その表情から底深い不安の色は消えている。
ひとまず竜樹さんの中にある言い知れぬ不安が形を潜めてくれてるならそれでいい。
もしかしたら私が帰って暫くしたらまた不安は顔を覗かせるのかもしれないけれど、どうしようもなくなったらここ数日のように電話してくれるだろう。
そうしたらまた彼の中から不安が消えるまで付き合えばいい。
竜樹さんのすぐ傍にいてもいなくても、私は自分ができることを続けていくだけ。

それは自ら望んだことだから。

そんなことを考えながら、タクシーが来るまでずっと竜樹さんの傍に座り込んでぽつぽつと意味のあるようなないようなことを話しながらそこにいた。
その時間は少なくとも私にとっては柔らかくて愛しい時間。
ずっとずっとそうしてたいなと思っているときに限って、タクシーは早々にやってくる。

「…ごめんなぁ、送ってやれへんで」
「何かあったら連絡くれたらいいから、ゆっくり休んでくださいね」

そう言って激しい雨の中、竜樹邸を後にする。

今日来てくれた運転手さんはなるべく料金がかからぬようにと、雨の中最短ルートを猛スピードで走っていく。
「…や、そんなに飛ばさなくてもいいですって」と思いつつ、移動の時間が短く済んだことはありがたかった。

自宅に戻り、挨拶もそこそこに竜樹さんに帰宅したことを報告。

「無事に帰れてよかったわ。しんどいし天気悪いのに来てくれてありがとうなぁ」

その声はまだどこか辛そうだけど、少なくともこれで安心して休んでもらえるだろう。
そう思うと、少しだけほっとした。

春の雨は激しくて冷たい。
この状態があとどれくらい続くのかと思うと、心が曇らない訳はないけれど…
冷たい雨が竜樹さんの心に辛い痛みと不安を与えるなら、せめて不安にならないように小さくても頑丈な傘差し出せたらと思う。

常に私だけが支え続けてきた訳じゃない。
竜樹さんに支えてもらったことだって多くある。
これまで底ばっかり見せられてきた訳じゃない。
一番高いところにあるものだって多く見せてもらってきた。
高いところにいても底にいても自分の中にある想いは確立してて、
誰が理解しようがしまいが私の中の何物も変えることはない。
それは他人の理解の在る無しが物事の根本を変えていく訳でないのと同じこと。

迷いを振り切る予兆はあれども、なかなか抜け出せずにいた春特有の鬱々した想い。
奇しくもそれは私が嫌う冷たい雨が完全に洗い流していったのかもしれない。

春の夜に流れていったのは、鬱々しい迷い。
春の夜に生まれたのは、再び前へ進むための迷いのない力。

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