桜鬱

2003年3月31日
楽しい時間が一本の電話で断ち切られる形で幕を下ろしてしまって、自宅に戻ってからもずっとすっきりはしなかった。
竜樹さんと一緒にいてる時間で、ようやっと自分の中の鬱っ気を払拭できたかと思ったのに、竜樹さんと離れたらまた鬱っ気が戻ってきたような気がする。

2人が置かれてる状態ったって、程度の差こそあれ障壁も問題もない状態で歩けた時間の方がはるかに短かったのだから、それを特筆してどうこう言うつもりもなく。
「あぁ、さらに厄介なのが増えてもたなぁ」程度のスタンスで挑んでいけると思ってたし、今もまだ心のどこかではそう思ってる。
私の両親が私の行動について過度に口を挟むのも、これまた今に始まった話じゃなし。
竜樹さんとのことについて否定的な見方しかしないということ自体もまた、今に始まったことじゃない。


すべては別に今に始まった話じゃないのに。

何をするにつけぷつぷつぷつぷつ引っかかる何かがすごく気に障る。
気に障るだけならこれまた今に始まったことじゃないからいいのだけれど、そのぷつぷつ引っかかるものが鬱っ気だけを連れて来る感じがするのは何故だろう。


9回目の始まりの日を越えて、昔に逆戻りしてるんだろうか?
八方塞がりの中から自らが手に入れるもののために何の犠牲も厭わぬほどの無責任なまでの力を行使しさえしたら、多分本当に欲しいと希うものだけを手にすることが出来るのだと判ってるのに。


いろんなものに縛り上げられて、行き場のない感情の切っ先が自らにしか向くことがなくて、それが鬱っ気を加速させてるのだと知りながら縛り上げる物事のすべてを簡単に振りほどいていけないのは、私の弱さなんだろうか?


大きな山まで、あと4ヶ月。
あと4ヶ月したら、否が応でも結論を出さざるを得なくなる。
その時何を手に取り何を捨てていくのかも、本当はもう知ってる。
それをクリアに履行できないのは、鬱っ気に引きずられてるというよりも…


大切だと思っているものの残像が心を締め上げてるのだということも、わかってはいるんだ。


「春が来て冬季鬱とやらが去る季節になったのに、今度は桜鬱に捕まったんか」


どうやら今度は桜の鬱にとっ捕まったみたいだ。
久しぶりにまた話せるようになった友達に「冬場には『冬季鬱』というものがあるらしいよ」と教えてもらってヘンに感心した覚えがあったけれど、もしかしたら桜の時期にも鬱っ気に捕らわれることがあるのかもしれない。
桜が咲くことに対して心がぱっと華やぐ感じがするけれど、その花の中にどこか物悲しさを見出すことがあるように、ふいに鬱っぽい感覚に捕らわれるのかもしれない。


…そんなことを言い出したら、「黄金週間鬱」だの「梅雨鬱」だの「お盆鬱」だのいくらでも時期鬱が生まれてきそうだよな


不意に頭を掠めた「桜鬱」という言葉に、ちょっとニヒリスティックな感情が流れたけれど。


8年前の今頃も、桜を見上げて同じようなことを考えていた。
竜樹さんといることで結果的には金岡の家族と離別することになるかもしれないなぁという感覚は現実のものとなるのだろうか。
それとも打開策は他にあって、大きな変化を加える段になって初めてその姿を見出せるのか。
今はまだ判らないけれど。


まだ咲ききらない桜を見つめながら、8年前と取り囲むものは何一つ変わってはいないのだという落胆を覚える自分と、それならそれなりに自分自身が納得できるだけの結果を手にするための手段を模索してやろうと思う自分が交錯する。


桜鬱は進路に目隠しを施してるみたい。
薄紅色の鬱に捕らわれてはいるけれど、いつまでもそれに捕らわれてる訳にはいかないことだけは確か。
昼夜問わず気持ちを縛りつづける桜の時期の鬱に少し疲れたから、今日は眠ることを優先してみよう。
すっきりした身体でもう一度桜を眺めたら、また違う気分になれるかもしれないと考えるのは甘いかなとは思うけれど…


それとも竜樹さんと一緒に桜を眺めたら、桜鬱なんて吹っ飛ぶのかな?



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