知るべき時が来たら

2002年11月17日
今日は1日何の予定もない休養日。
竜樹さんと別れた後、1日の出来事に思いを馳せてごろごろ転がってるうちに眠ってしまい、ぼんやりと目が覚めてからは猫と遊んだり、パソコンの前に向かったり。


金岡家では少し早い大掃除。
リビングをせっせと片付けてる両親の手伝いを少しばかりして、賄いのために台所に立つ。
買って暫く置いておいたセンレック(タイ料理に使う米の粉で作った麺)を戻し、シーフードミックスと一緒にフライパンで炒め、醤油とナンプラーで味付け。
名前もつかないような焼きそば

冷凍のシーフードミックスの下処理をずるせずに、ちゃんと湯通しすればよかったと思ったけど、概ね好評のうちに賄いタイムが終わる。
また少し手伝って、ひと段落ついてから自室に戻る。


それからは猫と戯れながらあれやこれやと作業を続け、ちょっと疲れたのでネットを散歩する。
いつもの巡回コースから少し外れた形で、久しぶりにある場所に立ち寄る。


…そこで思いもかけないものを見つけた。


そこでそれを見ることはもうないと思っていた。
想いのかけらは想いのかけらのままで、時間と共にそっとどこかへ消えてしまうものだと思っていた。
それが本当に現実に起こったことなのかと、何度も何度も見返した。


…見返してるうちに、「もしかしたら…」って思ったことがある。


でもそれは拡大解釈も甚だしいだろうと、その感覚を意識の端に追いやった。
もしもその感覚が正しいなら、とても嬉しいけれど…

それまでのことを振り返りながら、嬉しいような切ないような複雑な気持ちを抱えて暫くぼうっとその光景を眺めていた。


もしかしたら物事には知るべき時期があって、それは自分だけで決められないものなのかもしれないなんて、柄にもなく考えてしまった。
いいことでも悪いことでも、知るべき時は間違いなくあるのかも知れない。

知ることになるだろう人が好むと好まざるとに関わらず、ある日突然やってくるもの。

そんなものなのかも知れないなぁとぼんやりと考える。


6月に札幌までW杯を観に行った時にもそんな風に感じたような…


それを知ったところで何が変わるとも思わない。
想いの質が変わることも、距離そのものが変わることもきっとない。


それでも死なない何かは確かにあるのかも知れない。

それが判っただけで今は十分だ。
その出来事の根っこにあるものを、今はまだ知らなくてもいい。

知るべき時がくればちゃんと判るのだろうから…


それでも何となく誰かと話してみたくて。
そんなことがあったんだよと伝えてみたくて。
たまたま連絡をくれた友達にそんな話をしてみた。
少々子供じみた感情をただ静かに、やわらかく受け止めてもらえたのが嬉しかった。


竜樹さんとのこともそう。
大切な誰かとの間でもそう。
知るべき時が来たら、自ずと見えてくる景色がある。

その景色が自ら姿を見せるまで、もう少しだけ自分を取り巻く環境の中で泳いでいけたらいい。


その景色に出逢うまで…


コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

この日記について

日記内を検索