私にしかできないこと
2002年9月6日今日で再手術まであと1週間になった。
朝から鈍色の空。
家を出る前にレインジャケットと傘を持って出るかどうか迷って、何となく置いてきてしまった。
そんな時に限って、雨は降ってくる。
おまけに、最寄の駅に着いた途端大雨です。
憂鬱な気分でコンビニに飛び込み傘を買って、自転車をかっ飛ばす。
雨の日の自転車通勤は危険が3割増。
すれ違う自転車の運転の荒いこと荒いこと。
…きっと私の運転も相当荒かったんだろうけど(-_-;)
傘を差していたのに、ずぶぬれになって社屋に入る。
風邪を引きそうなくらいがんがんに効いた冷房の中で仕事をはじめる。
ちょっとばかり煩わしさを伴う仕事は何件か入ってくるけれど、ある程度は経験則で片付けられる。
何か大きなことが起こる度にそれまでの経験則で対応しきれない自分に苛立たしさを覚えてならないけれど、瑣末なことくらいは片付けられるだけの経験くらいは積めてたのだなぁと慰めにもならないことを思いながら、仕事を片付ける。
…どういう訳か、ぱったり仕事がなくなってしまった。
仕事が立て込みすぎれば不満炸裂、なければないで不安炸裂という勝手な思考回路を笑いながら、無理やり雑用を探してみたりパソコンの前で無駄に作業してみたり。
…ふと、思った。
執刀医から部外者扱いされたことを、苦々しく思っていたこと。
それが物事全体ではなく、不快に思ったことの側面だけしか見ていなかったに過ぎなかったのだと、殆ど毎日のように話している友達の言葉にはっとした。
書類上でも、何処から見ても明らかな家族という立場の人間ですら、ちゃんと家族のことを思って対処できないことの多いのに、その枠から外れた人間がそれ以上のことなどできるだろうと予測して状況や処置の方法について話すことを判断しろと言う方が難しいのかもしれない。
友達の言葉はもっと柔らかく暖かなものだったんだけど。
確かにそうだよなと思う。
付き合ってる人が大きな怪我をしたり病気をしたりすると離れてしまうパートナーが多いのだと、竜樹さんから聞かされたことがある。
「だから、霄は変わり者の部類に入るんやで」
そんな風に竜樹さんに言われたことがある。
私が世間様の言う「変わり者」だとしたら、医師は余計に判断しにくいだろう。
いつ離れていくか知れない人間になど、詳細について話すことは出来ないだろうから。
…悔しいけど、執刀医の判断は正しいのかもしれない。
身近にいる家族が取り乱すなら、その外側にいる他人はもっと冷静に対処しないと。
でなきゃ蚊帳の外であることの意味はないのだと思う。
ボスは相変わらず賑やかで、私がぶつっとしてると話し掛けてこられる。
それに心のかどかどを取り除いてもらいながら、暇すぎる時間が流れていった。
定時に事務所を出て、帰宅ルートをまっすぐ辿った。
夕飯を食べて、自室に戻ってぼんにゃりしながら、昼間振り返り振り返り考えてたことに思いをめぐらす。
「相手が大きな病気をしたり怪我をしたりしたら、離れていくヤツ多いねんで」
なんでそんなこと、できんねやろ?
自分がしんどいと感じることから逃げることを別に悪いとは思わないし、誰にもそれを責める筋合いなんてないと思う。
…でも、もしも自分の存在が相手にとって病と精一杯戦うための拠り所となるだけの存在だったとしたら?
大切な人からその拠り所すら奪っていくの?
自分がしんどくなくなるのと引き換えに、相手が大切にしてるものを根こそぎ奪っていくの?
竜樹さんの病気の重さに何度となく触れてきたけれど、そのことが原因で「別れる」という選択肢は出てこなかった。
自分がしんどいことよりも、辛そうにしてる相手の方が絶対的に辛いのだから、「逃げ出そう」という発想自体が私の中から生まれることはなかったからかもしれない。
人を見て羨ましく思っても、状況が上手くいかない様を何度となく見ても。
そんな感情そのものが生まれることがなかった。
…ただ竜樹さんが生きて私の傍にいてくれたらそれでいい。
それを執刀医の先生に理解されないと不快に思うのはお門違い。
判って貰おうと話したところで何が変わるわけでもない。
戸籍という名の形を持たぬものに特例を出してくださいと言って通すような人じゃないだろう。
一律「部外者」として扱われたことをずっと屈辱的だと感じていたことは事実だけど。
彼の病気を食い止める側の人の中での私が部外者でしかないと言うのなら、それはそれで仕方がないのかもしれない。
ならば、部外者なら部外者のできることをすればいい。
竜樹さんの大切なものに私がなれたというのなら、私は最後までその大切なものでありつづけたいと思う。
間違ってもいろんなことのしんどさに負けて、竜樹さんから拠り所を根こそぎ奪うような真似などしない。
それひとつで十分だと感じるのはただの気休めでしかなかったとしても。
…なんだか不思議な感じがする。
自分が竜樹さんの拠り所かもしれないなどと今まで考えたこともなかったのに。
自分に自信がなかったからかもしれない。
竜樹さんといてて安心してるようで、どこかに小さな不安は眠っていたのかもしれない。
それが自分が竜樹さんの拠り所かもしれないと少しでも思えるようになったのは、竜樹さんが「安心してもいいんだ」と配慮し続けてくれたからに他ならないんだと思う。
もしも、それを信じてもいいのなら。
私が竜樹さんの傍にいることで竜樹さんが病気に勝とうと思えるのなら。
私はどこまでも一緒にいるよ。
それが傍から見たらただの変わり者のやることでしかなかったとしても。
竜樹さんから拠り所を奪わない。
私が竜樹さんの拠り所であるうちは。
多分それは私にしかできないことだから。
私は竜樹さんに必要とされるだけ傍にいようと思う。
朝から鈍色の空。
家を出る前にレインジャケットと傘を持って出るかどうか迷って、何となく置いてきてしまった。
そんな時に限って、雨は降ってくる。
おまけに、最寄の駅に着いた途端大雨です。
憂鬱な気分でコンビニに飛び込み傘を買って、自転車をかっ飛ばす。
雨の日の自転車通勤は危険が3割増。
すれ違う自転車の運転の荒いこと荒いこと。
…きっと私の運転も相当荒かったんだろうけど(-_-;)
傘を差していたのに、ずぶぬれになって社屋に入る。
風邪を引きそうなくらいがんがんに効いた冷房の中で仕事をはじめる。
ちょっとばかり煩わしさを伴う仕事は何件か入ってくるけれど、ある程度は経験則で片付けられる。
何か大きなことが起こる度にそれまでの経験則で対応しきれない自分に苛立たしさを覚えてならないけれど、瑣末なことくらいは片付けられるだけの経験くらいは積めてたのだなぁと慰めにもならないことを思いながら、仕事を片付ける。
…どういう訳か、ぱったり仕事がなくなってしまった。
仕事が立て込みすぎれば不満炸裂、なければないで不安炸裂という勝手な思考回路を笑いながら、無理やり雑用を探してみたりパソコンの前で無駄に作業してみたり。
…ふと、思った。
執刀医から部外者扱いされたことを、苦々しく思っていたこと。
それが物事全体ではなく、不快に思ったことの側面だけしか見ていなかったに過ぎなかったのだと、殆ど毎日のように話している友達の言葉にはっとした。
書類上でも、何処から見ても明らかな家族という立場の人間ですら、ちゃんと家族のことを思って対処できないことの多いのに、その枠から外れた人間がそれ以上のことなどできるだろうと予測して状況や処置の方法について話すことを判断しろと言う方が難しいのかもしれない。
友達の言葉はもっと柔らかく暖かなものだったんだけど。
確かにそうだよなと思う。
付き合ってる人が大きな怪我をしたり病気をしたりすると離れてしまうパートナーが多いのだと、竜樹さんから聞かされたことがある。
「だから、霄は変わり者の部類に入るんやで」
そんな風に竜樹さんに言われたことがある。
私が世間様の言う「変わり者」だとしたら、医師は余計に判断しにくいだろう。
いつ離れていくか知れない人間になど、詳細について話すことは出来ないだろうから。
…悔しいけど、執刀医の判断は正しいのかもしれない。
身近にいる家族が取り乱すなら、その外側にいる他人はもっと冷静に対処しないと。
でなきゃ蚊帳の外であることの意味はないのだと思う。
ボスは相変わらず賑やかで、私がぶつっとしてると話し掛けてこられる。
それに心のかどかどを取り除いてもらいながら、暇すぎる時間が流れていった。
定時に事務所を出て、帰宅ルートをまっすぐ辿った。
夕飯を食べて、自室に戻ってぼんにゃりしながら、昼間振り返り振り返り考えてたことに思いをめぐらす。
「相手が大きな病気をしたり怪我をしたりしたら、離れていくヤツ多いねんで」
なんでそんなこと、できんねやろ?
自分がしんどいと感じることから逃げることを別に悪いとは思わないし、誰にもそれを責める筋合いなんてないと思う。
…でも、もしも自分の存在が相手にとって病と精一杯戦うための拠り所となるだけの存在だったとしたら?
大切な人からその拠り所すら奪っていくの?
自分がしんどくなくなるのと引き換えに、相手が大切にしてるものを根こそぎ奪っていくの?
竜樹さんの病気の重さに何度となく触れてきたけれど、そのことが原因で「別れる」という選択肢は出てこなかった。
自分がしんどいことよりも、辛そうにしてる相手の方が絶対的に辛いのだから、「逃げ出そう」という発想自体が私の中から生まれることはなかったからかもしれない。
人を見て羨ましく思っても、状況が上手くいかない様を何度となく見ても。
そんな感情そのものが生まれることがなかった。
…ただ竜樹さんが生きて私の傍にいてくれたらそれでいい。
それを執刀医の先生に理解されないと不快に思うのはお門違い。
判って貰おうと話したところで何が変わるわけでもない。
戸籍という名の形を持たぬものに特例を出してくださいと言って通すような人じゃないだろう。
一律「部外者」として扱われたことをずっと屈辱的だと感じていたことは事実だけど。
彼の病気を食い止める側の人の中での私が部外者でしかないと言うのなら、それはそれで仕方がないのかもしれない。
ならば、部外者なら部外者のできることをすればいい。
竜樹さんの大切なものに私がなれたというのなら、私は最後までその大切なものでありつづけたいと思う。
間違ってもいろんなことのしんどさに負けて、竜樹さんから拠り所を根こそぎ奪うような真似などしない。
それひとつで十分だと感じるのはただの気休めでしかなかったとしても。
…なんだか不思議な感じがする。
自分が竜樹さんの拠り所かもしれないなどと今まで考えたこともなかったのに。
自分に自信がなかったからかもしれない。
竜樹さんといてて安心してるようで、どこかに小さな不安は眠っていたのかもしれない。
それが自分が竜樹さんの拠り所かもしれないと少しでも思えるようになったのは、竜樹さんが「安心してもいいんだ」と配慮し続けてくれたからに他ならないんだと思う。
もしも、それを信じてもいいのなら。
私が竜樹さんの傍にいることで竜樹さんが病気に勝とうと思えるのなら。
私はどこまでも一緒にいるよ。
それが傍から見たらただの変わり者のやることでしかなかったとしても。
竜樹さんから拠り所を奪わない。
私が竜樹さんの拠り所であるうちは。
多分それは私にしかできないことだから。
私は竜樹さんに必要とされるだけ傍にいようと思う。
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