今朝も何だか蒸し暑い。
寝汗で目が覚めたので、シャワーで汗を流して出かける用意をしたけれど、家の外もまた蒸し暑くて汗が吹き出る。
シャワーを浴びた意味がなかったような感じで電車に乗り込む。


今日は会社帰りに竜樹さんの病院にお届け物をする。

昨日手に入れたお箸をなるべく食事の時間までに届けたいと思うから、定時ジャストに事務所を飛び出し、なるべく早く病院に辿り着ければいいなと思いながら社屋へ向かう。


朝の書類取りは以前ほどびくびくしなくても、よくなってるのがありがたいけれど。
今まで何度となく打ち破られてきた沈黙が今回珍しく長く続いてるのがちょっと不思議な感じがする。

…誰か、何か言ったかな?

先輩が誰かの言うことなんて聞くような人じゃないことくらい長い間一緒に仕事をしてれば判りそうなものなのに。
どんな事情や理由があるにせよ、誰がどんなことを言ったかしたかは知らないけれど。
今は必要以上に疲れたくはないから。
これはこれでありがたいなぁと思う。


取ってきた書類を淡々と片し、一人明るいボスの話し掛けに時折答えながら、もくもくと仕事をこなす。
相変わらず好きにはなれない仕事ではあるけれど、今はとにかく定時に事務所を飛び出せればそれでいい。
時間が空けばたったかたったか次の段階の仕事をこなし、昼からはあまり疲れることなく仕事を進められた。

定時5分前になり、ゴミ当番の仕事を始める。


…どうか厄介な電話がかかってきませんように


この時間帯にかかってくる電話は決まって、手をとられる仕事に化けることが多いので、せめて今日だけはかかってこないことを祈りながら、だかだかとゴミを集めてまわる。

電話に捕まることもなく、無事定時に事務所を飛び出すことができた。


自転車をかっ飛ばし、ホームに滑り込んでくる電車に飛び乗る。

夕方だというのに、お湯の中にいるような感じがするくらい蒸し暑い。
お腹も少し空いてる気がしたけれど、会社から病院までどれ位の時間がかかるか判らないからうっかり寄り道も出来ない。

会社から病院に向かうのは、これがはじめて。
面会時間内に、どうせ行くなら少しでも長い時間竜樹さんの近くでお手伝いしたいから。
とにかく、お腹がすこうが足元が少々ふらつこうが乗り継ぎの度にホームを走り、僅かな時間に滑り込んでくる電車に飛び乗り移動を繰り返す。

…予想してた時間よりも早く病院に着いた。


夜間出入り口から人の流れに逆らいながら病院に入る。
薄暗い鰻の寝床のような薄暗い通路をがつがつと肩を怒らせながら歩く。

…夜の病院は少々気味が悪いのだ

別に病院にお化けが出るとか不審者がいるとかって思わないけれど、薄暗く無駄にぐねぐねしてる通路は薄気味悪さが付き纏う感じがするから。
きっと傍目にはけったいな歩き方をしてるだろうと思いながら、ようやっとエレベーターホールに着き、竜樹さんがいるフロアにあがっていく。


ナースセンター前の面会者のノートに名前を書いて竜樹さんの病室に向かう。

扉のガラス越しに、少々ぐたっとしてる竜樹さんが見えた。


恐る恐るドアを開け、奥にいらっしゃる患者さんと面会に来られてるご家族の方に簡単に挨拶をして竜樹さんの傍による。


「…あれ?霄?どしたん?」


竜樹さんにお箸を届けに行くと言っていたのはいいけれど、「いつ」行くというのが上手く伝わってなかったみたい。


「ご飯は食べはったんですか?」
「うん、さっき終わってん。
食べ終わったら身体がいったぁてなぁ。身体起こされへんようになってもてん」

話をよくよく聞いてると、昨日からずっと調子が悪かったみたい。

「霄はご飯食べてきたん?」
「いいえ。面会時間に間に合うかどうか判らないから、食べずに来ました」
「これからはちゃんと食べといでやぁ。身体がもたへんから…」

そう言って、買い置きのパンを戸棚から取って食べるように言われ、もこもこと竜樹さんの隣でパンをかじっていた。


「他に足りないものはないですか?」
「そやなぁ。その引出しの中の手帳取ってくれるか?」

サイドテーブルの中にあった大きなシステム手帳を竜樹さんに手渡すと、走り書きしたメモを見せてくれた。


…その中の一点を見て、何ともいえない気持ちになった。


メモには、スリッパとRingと書いてあった。


「Ring」は、前回の手術の時に交わしたペアリング。
竜樹さんのは左手の薬指にしか入らないからずっと小さな袋に入れて持ち歩いていはったのだけど。
今回うっかり竜樹邸に置き忘れてきたらしい。


「…指輪、いるんですか?」
「うん。急がへんけど、持ってきて欲しいねん。
荷物の整理をしてる時になくしたら困るから、小さな箱に入れておいてんけど、その箱から持って出るのを忘れてん」


竜樹さんはあまりジンクスや迷信じみたものは信じない性質だし、取り立ててお守りのように何かを持ち歩くことに拘る性質でもない。

なのに、2人で交わした指輪は必要だと言ってくれる。

左手にするわけでもないし、ましてや手術室には持って入れないものなのに。


それでも2人で「頑張って元気になろうね。幸せになろうね」と約束した証しを必要としてくれる。


竜樹邸から持って出ることを忘れたことよりも、竜樹さんがそれを必要だと感じてくれることの方が数倍も数百倍も嬉しいことだから。


「俺んちに寄るのが面倒やったら、構へんからな?」
「いえ、ここにいてる間にちゃんと持ってきますから」


心持ち不安そうな竜樹さんの手の甲にぽんと手を置いて応えた。


そうこうしてるうちに時間はあっという間に過ぎて、面会時間は終了間際。
本当はもう少しいたい気がするけれど、そういう訳にもいかない。


「今よりもこれから霄にはいっぱい手伝ってもらわんなんから。
絶対ここに来る前に食事は済ませて来いよ?
霄が元気でいることが俺にとっても大事なことやねんから」


そんな風に気遣ってくれる竜樹さんと握手するような形で手を握り合う。
そして、そっと手を離して病室を後にした。


私がずっと大切にしてきたものは竜樹さんにも大切なものだった。


それがとても心に力をくれる。

思うことは沢山あるけれど。
心にはまだ小さな闇がぽつぽつとそこいら中に落ちてるけれど。
その一つ一つを払いのける力は、きっと2人が大切にしてきたものから生まれるのだろうから。


いろんなことを思っても、最後には笑顔で手を繋いで歩けるように。
2人が大切に想うものを握り締めて、この山を越えようと思う。


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