歩く速度で見えた景色
2002年7月5日今日は有給を貰った。
先月の中頃から閉塞感に苛まれたような感じが抜けなくて我慢ならなかったので、先週ようやっと取得した。
それでも意識のどこか隅の方では今日は出勤という頭があるのか、いつもと同じ時間に目が覚める。
…あ、今日は休みやんか(^^ゞ
起きるかどうか迷ってると、階下から叫び声がする。
「ムカデが出たぁぁぁぁ!」
階下から聞こえる声から察するに、台所で出たらしい。
しかも、追い出すことも殺すことも出来ずに行方知れずになったとか(爆)
…。。゛(ノ><)ノ ヒィ
いつもムカデが出没した時にその場に居合わせると、その後始末はすべて私がさせられる。
仕方なくやってるけれど、本当はあんな気持ちの悪い生物を相手にするのも、殺生するのも好きではない。
…悪い、今日は君たちで何とかしてくれ。
そうして部屋に篭城してるうちに、また少しばかり眠ってしまった。
何の予定もない状態で、休みを取るのは珍しい。
休みを取るのは大抵何かの予定のためだったり、突発的に体調が悪くなったりする時。
何もないのに休みを取るのは、どこか勿体無いような気がしてたから。
竜樹さんがもう一度入院したら、いつ手が要るか判らない。
自分自身が体調を崩す可能性もある。
だから、なるべく何かの用がなければ有給は取らないようにしてきたけれど。
ここのところ「定例」のことがとても癇に障ってたから、これはこれでいいのかもしれない。
窓の外の雲が動いていくのをぽけっと眺めていたけれど、つい何かしたくなるのが悪い癖で。
ゾンビっちを開いてあちらこちら散歩したり、メールを打ったりする。
…ふと、思う。
ここまでがむしゃらに走ってばかりだったなぁとか、その割には何も成せてないなぁとか。
会社を休みさえしたら目に触れなくていいものは確かにあるけれど、暇になれば暇になったで気になることはある。
…一体、私、何やってるんだろう?
今の会社に入る前、敢えて非常勤の形態をとってたのは、したいことがあったから。
私がしたかったことは結構時間の要るものだったので、毎日長時間拘束されたり、分不相応な責任が伴うとことを避けたかった結果だった。
生徒さんと向かい合うことが楽しかった時期も確かにあって、そんな時は暫く自分がしたいことを休んだけれど。
それでも、今ほど夢が死んだような気持ちにはならなかった。
自分が思ってたよりも、あの仕事は合わなかったわけではなかったんだろう。
噂好きな社員さんや自我の塊の直属の上司たちの顔色窺う作業以外は。
今よりも収入が少しばかり低い以外は面倒なことも少なかったし、時間的に余裕もあったから。
当初の予定通り、3年目のターンに入って竜樹先生に「もう辞めてもええで」と言われるまで続けてもよかったのかもしれないなどと、考えても無駄なことを考える。
やりたいことが出来なくなって。
息が詰まりそうな毎日を繰り返して。
発展性も創造性もなく、ただただ無意味なまでに目の前に転がり込んでくることをやっつけまわす毎日を一体いつまで繰り返せばいいのだろうと考えるのは、竜樹さんと歩くことに対する覚悟が足りないからに他ならないのだろうけれど。
「降りてもいいんだよ?」と言われたら、「降りたい」と思う自分は確実に勢力を増してきている。
そのくせ、後先考えずに辞表を書いて、椅子を蹴っ飛ばして辞めるだけの度胸もないらしい。
それが余計に、気持ちを滅入らせていく。
何者にも執着せず、ただ自分が目指すべき道のみを追及しつづけていたならば、成したいと願ったことはちゃんと形に出来たのだろうか?
どんな道を辿っても、私が成したかったものは成すことの叶わないものだったんだろうか?
どんな状況下にあっても、本当に成したいと願うなら、どんな形ででも成せただろうに。
それが成せないのは自分自身にそれだけの意思も余裕もなかったからに他ならないんだけど。
勢いが落ちて、抜け殻みたいになってる自分自身は存在意義すらないもののように思える。
竜樹さんに会うまでの私は、特急電車のような勢いで突っ走ってた。
結果という、自他共に最も判りやすい形でいろんなものをクリアにしていくのが性分で、休む間もなくだかだか走り回ってた気がする。
時々、友達に誘われて何気なく占い師に見てもらうと決まって、
「あなたは大器晩成型ですね、のんびり歩いていったらいいですよ」
と言われるのがとても嫌だった。
竜樹さんまで「霄は大器晩成型や」って言うのに、正直げんなりしてた。
…いつまで生きてられるか判らないのに、いつ叶うか判らない成功なんて待ってられるかよ?
何年経っても「大器晩成」って言葉は大嫌いな言葉のひとつではあるけれど。
自分が何かを成すために何者も省みない生き方選ぼうとしていて、見えない景色があった。
誰かといて暖かな気持ちになったり、誰かのことを自分のことのように感じて動く心があったことを知ったのは、結果を追いまわすのを少し緩めてからだった。
竜樹さんといるようになって、それが益々大切なもののように思った。
そうやって見えてきた景色は、確かにいろんなものの目を開いていった気がする。
自分が何かをしたいと思う以上に大切に思う誰かといたからこそ、見えた景色。
自分のsatisfactionよりも自分と竜樹さんと2人で見つめた景色は美しいものも澱んだものも何一つとして無意味なものなどなかった。
そのすべては、宝物のように今でも思える。
一緒にいたいと願う気持ち。
2人で何かをすることで見えた景色や笑顔、感じられた温かさ。
生命の強さと脆さ。
流す涙ですら、きちんと意味のあるものだということ。
特急電車のように勢いよく結果を叩き出せなかった代わりに、ゆっくりと互いの歩幅をあわせて歩いた時に見えた景色は、確かに今の自分を作り上げる基盤になったのには違いない。
…それでも、「なりたい自分」にはまだまだ程遠いのだけれど。
進んでいくスピードは人それぞれ個体差があって。
どうしても破壊力にも似た強さを以って何かを成していく姿に憧れるし、大器晩成よっか短期決戦で勝ちを取りにいけることの方に重きを置きがちなのも、早々簡単に変わるものではないけれど。
自分にしか手に入れることの出来ない景色を大切に感じて歩きたいと思う。
2人で一緒に歩いて手に入れたものは、きっとたった一人で勝ち得ただろうものよりもずっと暖かく、自分の中で確かなものとして握り締めていけるから。
詭弁でしかなくても、そう思いたい。
休むことは決して無駄ではないし、馬力を持って事を成していくことだけがすべてではない。
自分が棺桶に片足突っ込んだ時に「あぁ、これでよかったんだわ」と思えるなら。
…もうそれで、十分だと思うんだ。
日常の中で立ち止まってみて見えたのは、歩く速度の景色。
竜樹さんと一緒に歩く、ゆったりとした景色の暖かさ。
そんなことに思いを馳せた、何もしない1日だった。
先月の中頃から閉塞感に苛まれたような感じが抜けなくて我慢ならなかったので、先週ようやっと取得した。
それでも意識のどこか隅の方では今日は出勤という頭があるのか、いつもと同じ時間に目が覚める。
…あ、今日は休みやんか(^^ゞ
起きるかどうか迷ってると、階下から叫び声がする。
「ムカデが出たぁぁぁぁ!」
階下から聞こえる声から察するに、台所で出たらしい。
しかも、追い出すことも殺すことも出来ずに行方知れずになったとか(爆)
…。。゛(ノ><)ノ ヒィ
いつもムカデが出没した時にその場に居合わせると、その後始末はすべて私がさせられる。
仕方なくやってるけれど、本当はあんな気持ちの悪い生物を相手にするのも、殺生するのも好きではない。
…悪い、今日は君たちで何とかしてくれ。
そうして部屋に篭城してるうちに、また少しばかり眠ってしまった。
何の予定もない状態で、休みを取るのは珍しい。
休みを取るのは大抵何かの予定のためだったり、突発的に体調が悪くなったりする時。
何もないのに休みを取るのは、どこか勿体無いような気がしてたから。
竜樹さんがもう一度入院したら、いつ手が要るか判らない。
自分自身が体調を崩す可能性もある。
だから、なるべく何かの用がなければ有給は取らないようにしてきたけれど。
ここのところ「定例」のことがとても癇に障ってたから、これはこれでいいのかもしれない。
窓の外の雲が動いていくのをぽけっと眺めていたけれど、つい何かしたくなるのが悪い癖で。
ゾンビっちを開いてあちらこちら散歩したり、メールを打ったりする。
…ふと、思う。
ここまでがむしゃらに走ってばかりだったなぁとか、その割には何も成せてないなぁとか。
会社を休みさえしたら目に触れなくていいものは確かにあるけれど、暇になれば暇になったで気になることはある。
…一体、私、何やってるんだろう?
今の会社に入る前、敢えて非常勤の形態をとってたのは、したいことがあったから。
私がしたかったことは結構時間の要るものだったので、毎日長時間拘束されたり、分不相応な責任が伴うとことを避けたかった結果だった。
生徒さんと向かい合うことが楽しかった時期も確かにあって、そんな時は暫く自分がしたいことを休んだけれど。
それでも、今ほど夢が死んだような気持ちにはならなかった。
自分が思ってたよりも、あの仕事は合わなかったわけではなかったんだろう。
噂好きな社員さんや自我の塊の直属の上司たちの顔色窺う作業以外は。
今よりも収入が少しばかり低い以外は面倒なことも少なかったし、時間的に余裕もあったから。
当初の予定通り、3年目のターンに入って竜樹先生に「もう辞めてもええで」と言われるまで続けてもよかったのかもしれないなどと、考えても無駄なことを考える。
やりたいことが出来なくなって。
息が詰まりそうな毎日を繰り返して。
発展性も創造性もなく、ただただ無意味なまでに目の前に転がり込んでくることをやっつけまわす毎日を一体いつまで繰り返せばいいのだろうと考えるのは、竜樹さんと歩くことに対する覚悟が足りないからに他ならないのだろうけれど。
「降りてもいいんだよ?」と言われたら、「降りたい」と思う自分は確実に勢力を増してきている。
そのくせ、後先考えずに辞表を書いて、椅子を蹴っ飛ばして辞めるだけの度胸もないらしい。
それが余計に、気持ちを滅入らせていく。
何者にも執着せず、ただ自分が目指すべき道のみを追及しつづけていたならば、成したいと願ったことはちゃんと形に出来たのだろうか?
どんな道を辿っても、私が成したかったものは成すことの叶わないものだったんだろうか?
どんな状況下にあっても、本当に成したいと願うなら、どんな形ででも成せただろうに。
それが成せないのは自分自身にそれだけの意思も余裕もなかったからに他ならないんだけど。
勢いが落ちて、抜け殻みたいになってる自分自身は存在意義すらないもののように思える。
竜樹さんに会うまでの私は、特急電車のような勢いで突っ走ってた。
結果という、自他共に最も判りやすい形でいろんなものをクリアにしていくのが性分で、休む間もなくだかだか走り回ってた気がする。
時々、友達に誘われて何気なく占い師に見てもらうと決まって、
「あなたは大器晩成型ですね、のんびり歩いていったらいいですよ」
と言われるのがとても嫌だった。
竜樹さんまで「霄は大器晩成型や」って言うのに、正直げんなりしてた。
…いつまで生きてられるか判らないのに、いつ叶うか判らない成功なんて待ってられるかよ?
何年経っても「大器晩成」って言葉は大嫌いな言葉のひとつではあるけれど。
自分が何かを成すために何者も省みない生き方選ぼうとしていて、見えない景色があった。
誰かといて暖かな気持ちになったり、誰かのことを自分のことのように感じて動く心があったことを知ったのは、結果を追いまわすのを少し緩めてからだった。
竜樹さんといるようになって、それが益々大切なもののように思った。
そうやって見えてきた景色は、確かにいろんなものの目を開いていった気がする。
自分が何かをしたいと思う以上に大切に思う誰かといたからこそ、見えた景色。
自分のsatisfactionよりも自分と竜樹さんと2人で見つめた景色は美しいものも澱んだものも何一つとして無意味なものなどなかった。
そのすべては、宝物のように今でも思える。
一緒にいたいと願う気持ち。
2人で何かをすることで見えた景色や笑顔、感じられた温かさ。
生命の強さと脆さ。
流す涙ですら、きちんと意味のあるものだということ。
特急電車のように勢いよく結果を叩き出せなかった代わりに、ゆっくりと互いの歩幅をあわせて歩いた時に見えた景色は、確かに今の自分を作り上げる基盤になったのには違いない。
…それでも、「なりたい自分」にはまだまだ程遠いのだけれど。
進んでいくスピードは人それぞれ個体差があって。
どうしても破壊力にも似た強さを以って何かを成していく姿に憧れるし、大器晩成よっか短期決戦で勝ちを取りにいけることの方に重きを置きがちなのも、早々簡単に変わるものではないけれど。
自分にしか手に入れることの出来ない景色を大切に感じて歩きたいと思う。
2人で一緒に歩いて手に入れたものは、きっとたった一人で勝ち得ただろうものよりもずっと暖かく、自分の中で確かなものとして握り締めていけるから。
詭弁でしかなくても、そう思いたい。
休むことは決して無駄ではないし、馬力を持って事を成していくことだけがすべてではない。
自分が棺桶に片足突っ込んだ時に「あぁ、これでよかったんだわ」と思えるなら。
…もうそれで、十分だと思うんだ。
日常の中で立ち止まってみて見えたのは、歩く速度の景色。
竜樹さんと一緒に歩く、ゆったりとした景色の暖かさ。
そんなことに思いを馳せた、何もしない1日だった。
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