7回目は春の嵐

2002年3月29日
竜樹さんと2人で並んで歩くようになってから、7回目の春が来た。
初めて竜樹さんと歩くようになった日の空は、確か薄いブルー。
期待と不安とが入り混じったような、新しい心の色。
どんな朝を迎えるだろうと思いながら眠ったのに…


春の嵐のような朝が待ち受けていた。


昨晩、竜樹さんには「会社が終わったら、そちらに行きますね?」と連絡を入れていた。
先週末からずっと竜樹さんの調子が悪いことは判っていたけれど、ただ7回目の記念日に少しの時間でいいから一緒にいたかった。
前の晩にハンバーグのたねも作っておいた。
「今日は遅くなるからね」と家族にも了解を取っていた。
あとは年度末最後の仕事が立て込まないことだけ。

…そして、この春の嵐が少しでも形を潜めてくれることをただ祈るだけ。

いくつもの下準備を済ませ、いくつかの小さな願いを抱えて家を出た。


会社に入ると、終始噛み付くように鳴り響く電話と、意味不明なる質問の対応に追われていた。
手取りが減ってる今、残業になるのはある意味ありがたいけれど、竜樹さんと過ごす時間は短くなる。
いくら少しの時間でいいとはいえ、なるべくなら長く一緒にいたいから、ひたすら投げ飛ばすように仕事を片付け続けた。


戦闘モード120%で仕事を片付けたお陰か、無事に定時に事務所を出たけれど。
外は相変わらず嵐のよう。
傘を片手によろよろと、自転車を飛ばす。
ずぶぬれ状態のまま電車に飛び乗り、いつものように最後の乗り換えの駅から竜樹さんの携帯にワンコール入れるけれど、竜樹さんからメールも何もやってこない。

…多分、この雨でそれどころじゃないんやなぁ

会社に届いたかさばる荷物と傘、そしてどういう訳か重くて仕方のない通勤鞄を持って、よろよろと電車を降り、雨と渋滞のせいで乗車人数の膨れ上がったバスに乗り込む。
竜樹さんの状態がベストじゃないからこそ笑顔を繰り出したいと思うけれど、私自身も雨に弱い上に会社で必要以上に神経も体力も使ってしまった挙句、いつも以上に辛い状態の移動。

笑顔の繰り出し方すら、見失いそうになるけれど。

逢ったところで、竜樹さんの体にのしかかる痛みも呼吸の苦しさも取り除けるわけでなくても、そこにある空気ひとつ変えられたなら、きっと7回目の春はそれだけで意味のあるものなのかもしれない。
根拠レスな想いを抱えて、よろよろとバスを降り竜樹邸に向かう。


竜樹邸に入ると、竜樹さんは相変わらず辛そうで、何も食べてはいらっしゃらない模様。
作ってきたハンバーグでも焼こうかと思ったけれど、もっと胃に優しいものが食べたいとのこと。
冷蔵庫を見ると、何もない。
今週初めから天候が悪かったせいで、買出しにもいけなかったとのこと。
竜樹さんのご実家からご飯だけでも頂こうと思ったけれど、生憎留守の模様。
竜樹さんの提案で、出来合いものを買いに出ることにした。


外はまだ雨が激しく降っている。
漆黒の空を睨みながら、てくてくと歩き始める。
何となく降り注ぐ雨粒と一緒に沈んでいきそうな感覚に捕われる。

…何で、こんなにバカみたいに降って来るんだよ!?

天気に八つ当たりしても仕方がないと知りながら、大切な人の身体の不調を齎す天候に腹立たしさを覚えずに入られなかった。
惣菜屋さんに行って、玉子丼と南蛮漬けのお弁当を買って、また激しい雨の中とぼとぼと歩く。

雨は降り止まない。
竜樹さんの背中の痛みも収まらない。
今日が何の日なのかなんてことを気にする余裕すらないことも判る。
別に、思い出してくれなくてもいい。
ただ、この春の嵐と不調の嵐の中、竜樹さんの心が暖かくなったと感じられる一瞬を作り出せたなら、今日という日の意味はそれひとつで十分なんだろう。

だから、竜樹邸に戻る時、少しばかりの元気な声と笑顔を忘れずにいよう。
そして竜樹さんの家を出るまで、なるべく笑っていよう。


竜樹邸に入って暫くすると、竜樹さんはようやっと身体を起こせるようになったようなので、一緒に買ってきたご飯を食べる。
身体の痛みがひどいのと、それに伴って息苦しさが増すからか、会話が弾むなんてことはないのだけれど。
竜樹さんが元気を捻り出すように、ぽつりぽつりと話し始める。
常に私の方が喋りなんだけれど、竜樹さんが捻り出す言葉を消してしまいたくなくて、それに沿うように言葉を返す。
静かに、静かに、会話が流れていく。
そうしてるうちにご飯を食べ終え、竜樹さんは横になり、私は台所を片付ける。

片付けが終わってから、竜樹さんの傍にちょこんと座る。
この調子だと自力で帰らないといけないだろうから、いられるとしてもあと30分ほど。
残りの時間、ただ竜樹さんの傍にいられたらよかった。
明日もまた会えるんだから、竜樹さんはちゃんと元気を取り戻せるようにゆっくり休んでくれたらそれでいい。
そう思って、ちょこんと座ってる。
そんな私に触れる竜樹さんの手にあまり力が入ってないことが気になった。

「…雨が降っててしんどいのに、無理言って来ちゃったね。ごめん…」
「霄が来てくれへんかったら、俺は今日も何も食べんと寝るしかなかってんで?
来てくれて助かったんやで?
せめて今日くらい晴れてくれたらよかったのになぁ…
今日が『始まりの日』やってんやろ?」

…言葉に詰まった。

あぁ、この人は判ってたんだね?
いつも「俺にとって本当に大事なのは、付き合い始めた日よりも『これからもずっと一緒に歩こう』って言った日の方やねんで」って言ってたのに、2人が最初に歩き始めた日のことをきちんと覚えててくれてた。

もう十分じゃないか?これひとつあれば。
春の嵐が来ようが、なんだろうが。
竜樹さんにとって今日が重要であろうがなかろうが。
ただ私がこの日を大切に思っていたことを覚えていてくれたこと。
何の役にも立たなくても、ここに来た気持ちだけをそっと受け取ってくれたこと。
それだけで十分なんだよ?

「明日は晴れるといいね。明日は背中の痛みがなかったらいいのにね」
「そやなぁ。でも明日は晴れるで?
今日こんだけ降ってんもん。明日は晴れるって」

重い表情にわずかばかりの微笑みひとつ、目の前を掠めていった。
その微笑に暫く意識を奪われたまま、そこに座り続ける。
我に返って時計を見ると、バスはもうない。

「俺が送っていくわ。十分休めたし、飯も食ったから」

そう言って、起き上がる竜樹さんを制止したけれど。

「今日せっかく来てくれてんし、先週は自力で帰ってもらってるから。
こんな雨やし荷物もあるみたいやから、ちゃんと送ってくで?」

結局、その言葉に甘えてしまった。


春の嵐は金岡邸に戻ってもなお、収まる様相は見せなかったけれど。

7年目の春は、嵐の中やってきたけれど。
2人の間にある空気は少なくとも暖かかったのだと。
春の嵐の中にでも暖かさは確かに存在するのだと、再確認できた、そんな7回目の春だった。

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