薔薇線

2002年3月6日
元々、他人に対してある程度の線を引くようなところはある。
何事も常に自分の主は自分だと思っているから。
触れられたくない範疇の答は自分で出すものであって、外野がどうこう言うべきもんじゃない。
それは子供の頃から思ってた。

人嫌いなわけじゃないけれど、
人間には互いに触ってもいい領域と触ってはならない領域ってのがあって、触れてもいい範囲内に生息してるのが互いにとって一番いんだろうってことは子供の頃から知ってた。

それでも時々それを忘れて、うっかり相手の領域に踏み込みすぎてしまって、
その結果、疎まれて去られることもあって、やっぱり注意せんなんもんなんやろうなって痛感する。


けれど、そう思う後ろ側にあるもうひとつの事実。


「踏み込み過ぎたかな?」と思っても、心に触れることを許してくれる人がいる。
私の心に触れようとすることに対して、それが嬉しいものだと教えてくれた人もいる。


ちっさな配慮とたっくさんの暖かさ。


それが心で触れ合えることのよさを教え、薔薇線で心を仕切らなくてもいいと思わせてくれたんだ。


だけど、みんながみんなそう思ってる訳じゃないんだよね?


自分の中の正義や当たり前が、相手にとっても当然の正義や当たり前だと思うこと。
自分がしてることや見てることを自分と同じようにしないことをおかしいと思い、憤る。


そんな光景が心に石を投げ込んだ。


別に、私の像をあなたの中で決め付けるのはあなたの勝手だと思うよ。
あなたの心の中にある私の像の形について、けちをつける気はない。
「金岡霄」という人間に対してどんな像を抱こうがあなたの自由だ。
生身の私がその像とは異なるからといって、私自身に失望することですら、あなたの自由なんだと思うけど。


…だけど、自分の抱く像が生身の私と違うことに対して、どうこう言われる筋合いないよなぁ?


あなたの時間はあなたの時間。
私の時間は私の時間。

すべて自分の時系列と価値観だけで作り上げられた箱庭の中で話が進められなければ、ムカつくって言うんなら。
別に話し掛けてなんていらないし、関わろうとして頂かなくても結構だよ?

確かに、私はいてもいなくてもどうでもいいような人間だろうし、
そんな人間を自分の中で「特別」にしてやってるっていうなら、
それはある意味ありがたいことなんだろうけど。


「してやってる」と思われながら接して頂かれなきゃならないほど、私は人に飢えてるわけじゃない。
むしろ本質的な部分は一人で歩いてる方が向いてさえいるんだろうから。

困るはずなど無いじゃないか?


人の中にある私の像は、人の数だけあって。
どれも当てはまるかもしれないし、どれも当てはまらないかもしれない。

その真偽はどうあれ。

自分の中の「像」でしか私を捉えようとしない人に出会うと。
もう一度、薔薇線張ってみたくなるんだよ。

「ここから先は入らないで。痛い目に遭うよ?」

それを頑なに示すことでしか、判って貰えないというのなら。


それすら、仕方ないのかもね?


極論言うなら、竜樹以外の人が私をどう思おうと知ったことか!?

そう思えば、すべて機嫌よくいくのか?
心の靄は晴れるのか?


締め出すことばかりが能じゃないと知りながら、
もう一度薔薇線張りたくなる衝動がひとつ。


心の奥底に封印してた薔薇線ひとつ、引きずり出した人間がひとり。


そんな人間相手に1日すっきりしない私がひとり。


コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

この日記について

日記内を検索