今日であの大きな地震が起こってから7年目を迎える。
あの地震がなかったら、今とは違う道を歩いていたことを。
最後に自分の気持ちを取り戻した結果、大切な人に出逢えたことを。
生命が大きく揺れ動き、私にとってはすべての始まりとなった7年前に想いを馳せる。
          
          
           
朝、また重い身体を起こして出勤。
私が眠っている間に携帯にメールがたくさん届いていた。
一生懸命心の中から生まれ来る何かを文字に託してるメールに言葉が詰まった。

想いが痛みと背中あわせであることを、思い知った気がした。


自分にとって大切な人の「特別」になりたいと希う。
それはきっとごく自然なこと。
自分が大切に想う人の「特別」になりたいと思うから、認めて欲しいと願うから、独り占めしたいと思い、大切な時間を共有したいと思い、我儘を受け入れて欲しいと願う。

大切な人の存在は心を暖めるけれど、それと同時に大きな痛みもまた連れてくる。
時にその痛さに耐えかねて、離れて歩いていくことを選ぶこともある。
それですら、間違いだとは思わない。
それで「逃げてしまった」と自分を責める必要も、第三者に責められる筋合いもない。

…だって、痛いものは痛いもの。
我慢できない痛みは確かに存在するのだから。


友達はずっと苦しんでいた。
心の底に大きく広がる想いから生まれた痛みが、ずっとずっと消えないままで。
「どうしたら、その痛さは和らぐのだろう?」と思いながら、その痛みがそう簡単には癒えることのないものだということもまた、十分すぎるくらい判っていた。


その痛みは想いが強ければ強いほど加速していくものだから。


痛みの迷宮から逃れるには、心に蓋をするしかない。
だって、痛みは溢れるばかりの想いと正比例するものだから。
その痛みを味わいたくなければ、誰かを大切にしたいと想う気持ち自体を抑えないといけない。
そんな気がするから。


相互理解をしようと努力をすれば、確かに痛みは小さくはなるかもしれない。
相手のことをお互いが思い遣れば、そんな痛みを感じなくて済むのかもしれない。
でも、自分の望みを相手がすべて叶えられるかって言えば、正直「どうなのかな?」って思う部分がある。

誰かを大切に想う気持ちは自分の中から生まれてくるものだから。
それが「自分」寄りの想いであっても、ある程度は仕方がない気がしてる。
相手のことを優先して考えられるならそれはベターではあるだろうけれど、「相手を一番」にすることは自動的に「自分を一番より下」に持っていくしかないから。

両方が曲げない状態で「お互いがお互いを一番」なんて成立するのかな?

この先はどうか判らないけれど、今までそんな人にはお目にかかったことがないから。
根拠レスに「できるよ」って言われても、正直今は信じる気がしない。


だから、「相手を尊重する」って気持ちを持ちながら、痛みが伴うことを覚悟で想うしかないのかもしれない。


心から生まれる暖かな感情に蓋をするなんて、不自然極まりないよって思うんだ。
それが想いの種類を異にしてるとは言え、「大切」や「好き」を並立させてることについてもそれはそれで構わない気がする。
それを不誠実だって思わないし、本人以外の誰かが断ずる筋合いなんてないって思う。

あなたはあなたの想いを大切にすればいい。
あなたの想いが不誠実なものでないことは、私が承知してるから。
それが取るに足りない根拠でも、いつかは暖かな想いをくれる誰かと歩いて欲しいと思う。


出来るだけ、心が痛まない愛を手に入れて欲しいと願うけれど。
心の痛みは想いと背中あわせの部分をもつから、0になるとは思えない。
だけど、痛みを引き換えにしてでも欲しい想いを見つけたら。
心に蓋をせず、その想いを守り通して欲しい。
痛みから逃れるために心に蓋をすることは、思いを大切にすることと引き換えについてくる痛み以上の傷を残すような気がするんだ。

そうやって心閉ざす姿は、「私」が見たくないから。

こんな発言ですら、きっとあなたには傲慢極まりないのかもしれないけれど。
いつかそんな誰かと出逢えた時には、今よりも自分を責めないあなたに出会いたいなと思ってるんだ。


蹲りたい時は蹲ってていいんだ。
誰かを好きになりたい時は、その気持ちに正直に生きていいんだ。
諦めたくないなら諦めなくていい。
よっぽどの迷惑をかけるのなら、ダッシュかます前にちょっくら止めに入るかもしれないけれど。
基本的に私は止めない。


ただ、これだけは覚えておいて。
想いと痛みは背中あわせであって、切り離すことのできるものではないのだということ。
付き纏う痛み以上の思いに出逢えたら。
その時は、怯まずまっすぐ進めばいいんだよ?


そう友達にお返事をしようと思いながら、連日の寝不足がたたって乗り物に乗るとグー。
ご飯を食べ終わってもグー、湯船の中でもグー。

「細切れ寝太郎」状態で「始まりの日」を終えてしまうことになりそうだけど…


友達の言葉に想いと痛みの相関図を思い描き、私と竜樹さんのいる地図の上にそっと乗せてみる。
連日、心を痛めていたこともまた、「想い」の証しであったことを実感する。


7年前。
「人を想う気持ち」とちゃんと向き合えない私は、ちゃんと私を見てくれただろう人を真正面から見ることができなかった。
ただ「傷つく」ことも「傷つける」ことも嫌で、何となく一緒にい続けてしまった。
「それでもいいか」と半ば投げやりな気持ちのまま自分の気持ちに蓋をしたまま、新しい年を迎え…

「あの日」はやってきた。

身近なところでも生命が揺れ動く中に立って、そのままい続けることが「違う」と気付いた。
相手が自分を想ってくれる気持ちにちゃんと応えられないまま「家族」として生きることは出来ない。
たとえこの先ずっと一人になっても、私は応えられない人とは向き合えない。
形ばかり応えることは、決別する以上に相手を傷つけ、自分を傷つける。

だから。

最初から最後まで傷つけて、別れた。

自分の不誠実さに歯がゆさと嫌悪感を覚えて、心を閉ざす蓋をどんどん強固なものにしていった。
そんな中、竜樹に出逢った。
職場の中ではなく、職場の外で。

考える余地もなく竜樹に引っ張られ、その中で「大切な想い」を見つけた。
形ばかりの幸せにはもう出逢えそうにないけれど。
いつか、痛みも想いもすべて抱き締めて、笑顔溢れる自分に出逢えるように。
いつか、心と身体の痛みを越えたところで、笑顔溢れる竜樹に出逢えるように。

痛みも想いもちゃんと抱えて歩きたい。


竜樹を想う自分の気持ちに触れて、始まりの日に想う。


痛みを伴っても、想いが痛みに勝ち続けている間は竜樹さんの傍にいよう。



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