つかの間の「子供返り」
2001年8月30日昨日の晩、友達とメッセで話した。
鏡のような友達なので(笑)、痛さがよく判る。
お互いの痛さについて話しあい、少し浮上した。
寝ようかな?と思ってたときに、別の友達が捕まえてくれた。
話の転がるテンポがよくて、またさらに浮上した。
痛さが和らいでくれ、ちゃんと眠れたはずなのに…
朝起きて、シャワーを浴びて服を着た途端、体中にぶつぶつが出た。
…25日の日と同じ症状だ(>_<)
参ったことに、服を着るとさらに痒みが増すのだ。
仕方がないので、会社に半休の申請の電話を入れ、薬を塗って痒みが治まるのを待つ。
…何時の間にか眠っていた
次に目が覚めたときには痒みが治まっていたので、会社に電話を入れ昼食を食べて出かけようとする。
けれど、また「捕まって」しまった。
心の痛さはなかなか消えることがなくて、困ってしまった。
こんな大人気ない話で何で今更詰まるんだろう?
そもそも昔は人になんて執着せずにいられたから、知ることのなかった痛さを。
何で今頃思い知ったり、心痛めたりするんだろう?
…ばかみたい
そう思いながら、情けない気持ちひとつ抱えて電車に乗る。
会社で仕事をしてても、ずっと引っかかり続ける。
業務に影響が出るほどに引っかからなかったのは幸いだけど。
…辛気臭いのをいつまでも、引っ張るのは嫌だ。
事態について、きちんと対処したいから。
「自分」の中に意識を沈める。
昔は「人に執着がなかった」のは確かだけれど、人を好きにならなかったわけじゃない。
恋愛・友情問わず、「人」は好きだった。
今よりももっと物をはっきり言うヤツだったから、「好きは好き」と割とオープンに宣言してた。
今でも人を好きになる気持ちは残っているのだけど…
何故、意固地なまでに「人に執着」しなくなったのか。
どうして「好意のアンテナ」は壊れたのか?
…気が付いてしまった。
昔はオープンに「○○さんと友達になりたいねん」「○○ちゃん好きやねん」って言ってた。
口にしなくても、見てりゃ判るほどはっきりしてたと思う。
皆それを何食わぬ顔して見たり聞いたりしていた。
けれど、私がそう言ってしまうと決まって、私が「好き」になった人に何かしら「小石」が投げられる。
皆のいる前で、私が好きになった人めがけて「あんたなんて大嫌い」と言う友達。
見えないところで、ちょっとした、だけどすごく棘のある言葉を放ったりする友達。
私に好きになられた人に嫌な思いをさせるようなことが次々と起こる。
いつでもその場面に出くわすと、「何でなんやろ?」と首を捻る。
子供のうちは首を捻りながらも、「私が庇い続けてたら、そのうち終わるだろう。子供のやることだし」と思ってた。
けれど、庇えば庇うほど激化する。
それでも残る友達もいれば、去る友達もいる。
彼氏と言われる人間ですらそうだった。
別れた途端に「最低」呼ばわり。
確かに「最低」なヤツもいたんだけどさ…(-_-;)
けれど、いい年齢になっても、それは続く。
学校が変わり、友達の構成メンバーが代わっても延々と続く。
誰と当たっても変わることのない事態。
…もぉええ、判った。
もう二度と「誰々が好き」なんて言わへん。
その代わり、誰の気持ちも見ない。
誰が自分を好きだろうが嫌いだろうが知ったことか!?
誰にも触らないから、誰も私に触るな。
「好意のアンテナ」は「壊れた」のではなくて、自ら「壊した」んだ。
誰かが判るように「霄が好き」と言ってくれない限り、他人の好意が判らないように。
自分の力でアンテナを壊したんだ。
そして、それにすら目を向けようとせずに、長いこと歩き続けたんだ。
もしかしたら、こんな私のことを「好き」になってくれた人がいたかもしれないのに。
もしかしたら、もっと「好き」になれた人がいたかもしれないのに。
自分の子供返りの根っこの部分が判ったのと引き換えに、どす黒い想いにむせ返る。
けれど。
何時の間にか、そこの部分の意識がすこんと抜け落ちた状態で、また人を好きになれるところまで回復してたっていうのも確かな事実だったんだ。
でなきゃ、友情の「片想い」にへこむようなことはなかっただろうから。
根っこが判れば、対処のしようもある。
人に迷惑をかけ過ぎない程度の「子供返り」なら許されるかもしれない。
痛さを知っているなら、その痛さを人には味合わせないで済むのかもしれない。
自分が見て見ない振りした「記憶の闇」から手に入れた何かを以って、そこからよりよい生き方を手に入れられたなら。
これはこれで無駄ではないのかもしれない。
そう思った。
そう思って仕事をすると、面白いくらい仕事が片付いて、定時に出ることができた。
家に帰りながら、昨日メッセで話した友達にメールを送る。
メールのやりとりを続け、ふとしたことから「解決」の糸口を見つける。
それが正しいのかどうか、わからないけれど。
いい年齢して「子供返り」してる私に、変わることのない暖かな気持ちをくれる友達がいてくれてることを知って、嬉しく思う。
いくつになっても忘れたくはない「嬉しい」の瞬間は確かにあるんだ。
竜樹さんに愛されるだけが、私の「嬉しい」じゃなかったんだ。
いろんなことに「嬉しい」と感じて、そこから生まれる暖かな気持ちを以って、自分の大切だと思う人たちみんなに何かを渡せたら。
今よりももっと機嫌のいい明日があるのかもしれない。
そういうのもまた、私には必要だったのかもしれない。
「子供返り」って、それが定着するとなんだか大人気なくて嫌なんだけれど。
子供時代に忘れてきたことを、一瞬取り返す時間があっても悪くはないね?
気が付いたところで、自体の根本解決に役立つかどうかはまた別問題だけど。
人を好きでいること、心が揺れること。
痛みは伴っても、それを持ち続けることで人間的な深さを身につけられるなら。
こんな痛さもたまには悪くないのかもしれない。
つかの間の「子供返り」に、教えられた気がして妙に晴れやかな気持ちになった。
たくさんの好意をくれたお友達に、いつか私の気持ちが還っていきますように。
長い間培った「気質」はそうそう簡単に改善されないかもしれないけれど、
いつかさりげない「想い」にも気がつきますように。
そんな「想い」にもまた、笑顔で向き合えますように。
鏡のような友達なので(笑)、痛さがよく判る。
お互いの痛さについて話しあい、少し浮上した。
寝ようかな?と思ってたときに、別の友達が捕まえてくれた。
話の転がるテンポがよくて、またさらに浮上した。
痛さが和らいでくれ、ちゃんと眠れたはずなのに…
朝起きて、シャワーを浴びて服を着た途端、体中にぶつぶつが出た。
…25日の日と同じ症状だ(>_<)
参ったことに、服を着るとさらに痒みが増すのだ。
仕方がないので、会社に半休の申請の電話を入れ、薬を塗って痒みが治まるのを待つ。
…何時の間にか眠っていた
次に目が覚めたときには痒みが治まっていたので、会社に電話を入れ昼食を食べて出かけようとする。
けれど、また「捕まって」しまった。
心の痛さはなかなか消えることがなくて、困ってしまった。
こんな大人気ない話で何で今更詰まるんだろう?
そもそも昔は人になんて執着せずにいられたから、知ることのなかった痛さを。
何で今頃思い知ったり、心痛めたりするんだろう?
…ばかみたい
そう思いながら、情けない気持ちひとつ抱えて電車に乗る。
会社で仕事をしてても、ずっと引っかかり続ける。
業務に影響が出るほどに引っかからなかったのは幸いだけど。
…辛気臭いのをいつまでも、引っ張るのは嫌だ。
事態について、きちんと対処したいから。
「自分」の中に意識を沈める。
昔は「人に執着がなかった」のは確かだけれど、人を好きにならなかったわけじゃない。
恋愛・友情問わず、「人」は好きだった。
今よりももっと物をはっきり言うヤツだったから、「好きは好き」と割とオープンに宣言してた。
今でも人を好きになる気持ちは残っているのだけど…
何故、意固地なまでに「人に執着」しなくなったのか。
どうして「好意のアンテナ」は壊れたのか?
…気が付いてしまった。
昔はオープンに「○○さんと友達になりたいねん」「○○ちゃん好きやねん」って言ってた。
口にしなくても、見てりゃ判るほどはっきりしてたと思う。
皆それを何食わぬ顔して見たり聞いたりしていた。
けれど、私がそう言ってしまうと決まって、私が「好き」になった人に何かしら「小石」が投げられる。
皆のいる前で、私が好きになった人めがけて「あんたなんて大嫌い」と言う友達。
見えないところで、ちょっとした、だけどすごく棘のある言葉を放ったりする友達。
私に好きになられた人に嫌な思いをさせるようなことが次々と起こる。
いつでもその場面に出くわすと、「何でなんやろ?」と首を捻る。
子供のうちは首を捻りながらも、「私が庇い続けてたら、そのうち終わるだろう。子供のやることだし」と思ってた。
けれど、庇えば庇うほど激化する。
それでも残る友達もいれば、去る友達もいる。
彼氏と言われる人間ですらそうだった。
別れた途端に「最低」呼ばわり。
確かに「最低」なヤツもいたんだけどさ…(-_-;)
けれど、いい年齢になっても、それは続く。
学校が変わり、友達の構成メンバーが代わっても延々と続く。
誰と当たっても変わることのない事態。
…もぉええ、判った。
もう二度と「誰々が好き」なんて言わへん。
その代わり、誰の気持ちも見ない。
誰が自分を好きだろうが嫌いだろうが知ったことか!?
誰にも触らないから、誰も私に触るな。
「好意のアンテナ」は「壊れた」のではなくて、自ら「壊した」んだ。
誰かが判るように「霄が好き」と言ってくれない限り、他人の好意が判らないように。
自分の力でアンテナを壊したんだ。
そして、それにすら目を向けようとせずに、長いこと歩き続けたんだ。
もしかしたら、こんな私のことを「好き」になってくれた人がいたかもしれないのに。
もしかしたら、もっと「好き」になれた人がいたかもしれないのに。
自分の子供返りの根っこの部分が判ったのと引き換えに、どす黒い想いにむせ返る。
けれど。
何時の間にか、そこの部分の意識がすこんと抜け落ちた状態で、また人を好きになれるところまで回復してたっていうのも確かな事実だったんだ。
でなきゃ、友情の「片想い」にへこむようなことはなかっただろうから。
根っこが判れば、対処のしようもある。
人に迷惑をかけ過ぎない程度の「子供返り」なら許されるかもしれない。
痛さを知っているなら、その痛さを人には味合わせないで済むのかもしれない。
自分が見て見ない振りした「記憶の闇」から手に入れた何かを以って、そこからよりよい生き方を手に入れられたなら。
これはこれで無駄ではないのかもしれない。
そう思った。
そう思って仕事をすると、面白いくらい仕事が片付いて、定時に出ることができた。
家に帰りながら、昨日メッセで話した友達にメールを送る。
メールのやりとりを続け、ふとしたことから「解決」の糸口を見つける。
それが正しいのかどうか、わからないけれど。
いい年齢して「子供返り」してる私に、変わることのない暖かな気持ちをくれる友達がいてくれてることを知って、嬉しく思う。
いくつになっても忘れたくはない「嬉しい」の瞬間は確かにあるんだ。
竜樹さんに愛されるだけが、私の「嬉しい」じゃなかったんだ。
いろんなことに「嬉しい」と感じて、そこから生まれる暖かな気持ちを以って、自分の大切だと思う人たちみんなに何かを渡せたら。
今よりももっと機嫌のいい明日があるのかもしれない。
そういうのもまた、私には必要だったのかもしれない。
「子供返り」って、それが定着するとなんだか大人気なくて嫌なんだけれど。
子供時代に忘れてきたことを、一瞬取り返す時間があっても悪くはないね?
気が付いたところで、自体の根本解決に役立つかどうかはまた別問題だけど。
人を好きでいること、心が揺れること。
痛みは伴っても、それを持ち続けることで人間的な深さを身につけられるなら。
こんな痛さもたまには悪くないのかもしれない。
つかの間の「子供返り」に、教えられた気がして妙に晴れやかな気持ちになった。
たくさんの好意をくれたお友達に、いつか私の気持ちが還っていきますように。
長い間培った「気質」はそうそう簡単に改善されないかもしれないけれど、
いつかさりげない「想い」にも気がつきますように。
そんな「想い」にもまた、笑顔で向き合えますように。
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